2018年2月22日 (木)

古い仏教とスパイスの交易の島スリランカ

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 昨年の夏には家族でスリランカに行きました。まずはコロンボに一泊し、次の日、キャンディ経由でダンブッラへ行きました。

 

 

 

 首都コロンボの街の喧騒を抜けると、ところどころで赤いランブータンを露店で売っている人たちがいます。また、途中には、カシューナッツが特産という村があり、生のものと、ローストしたカシューナッツを大きな袋で売っていました。値段は言い値で買うと案外高い観光客用の値段のようでした。

 

 

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スリランカでは大きな交差点にには必ずと言っていいほど、金色の仏様が祀られており、事故など起きないよう、人々を見守っているようでした。スリランカは古くから仏教の国なのです。街の仏像は大概座像で、とても大きく、交差点のどこからでも仏様を見られるようにガラスの廟の中に安置されており、タイ同様、暮らしのうちに信仰が行われている感じがしました。

 

 

 

 面白いと思ったのは中古車の販売会社で、あらゆる部品をバラバラにして、部品ごとに売っているらしいお店です。キャンディへ向かう途中にはイギリスがこの国に強い影響を与えていた時代に作られた紅茶工場がありましたが、その工場では百数十年前の年号の入った機械が今でも使われていました。あとで知ったことですが、この国の人々のリペア技術は素晴らしいものがあり、部品を取り換え、取り換え日本では考えられないほど長く機器類を使っていくようです。街道沿いの小屋のような所に、日本企業の銘板が入った、昭和の香りぷんぷんの大型機械が置かれていたのにも遭遇しました。

 

 

 

途中にはスパイスの農園があり、大雨の中、スリランカ伝統医学の医師でもある農園の主の説明を受け、少しのスパイスをお土産に買いました。説明を受けてみると、街道沿いもスパイスやナッツの樹が多く、おそらくは家の庭に植えてある樹々が食事作りの材料になってしまうのだろう、と思われました。さほどの手間をかけずにこうした香料や木の実が手に入るスリランカという島について、紀元前300年頃のギリシア人たちもすでにその存在を知っており、紀元後20年にはローマ人たちがここを訪れ交易をしたといわれています。776年に編輯されたというベネディクト派の僧が作った世界地図には赤い河に浮かぶ黄色い島としてセイロンが描かれており、重要な交易相手であったことが伺われます。庭先に自然と高価な交易品が実ってしまうこの国は、本当に羨ましい国として知れ渡ったのでしょうね。

 

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 キャンディは湖のある、しっとりとした雰囲気の街でした。ここでは湖畔の仏歯寺(ダラダーマーリガーワ寺院)に参りました。多くの象たちが飾りをつけて繰り出す毎夏のペラヘラ祭りが有名です。寺院の外で皿に盛った生花を買い、寺院に持って入ります。私たち親子はいつの間にかついて来てしまった青年の説明を聞きながら中を見学いたしました。(見終わった時にガイド代を請求してきます。)スリランカではどこでもそうですが、寺院では靴を脱ぎ、裸足で歩かなくてはなりません。外のコンクリートの小道や砂利の通路を歩くのは、慣れていない私たちには少し辛いものがありました。それでも1603年創建という寺院の建物は美しく彩色された木造のもので、日本の江戸時代の東照宮の煌びやかなさまと同様、同じ頃にこのようにスリランカでも多色の美しい建築物が建てられていたのだな、と思いました。堂内は今なお祈りに来る多くの人でいっぱいでした。私たちも白や紫の睡蓮や蓮の花を、仏歯の祀られている前の献花台にお供えしてきました。紫の睡蓮は国の花なのだ、と運転士さんが教えてくれました。

 

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 キャンディからはさらに高地となるダンブッラへ向かいました。広い広い蓮池も見かけましたが、蓮の実もまた交易品だったのでしょうか。 最近、テレビで見て驚いたことに、古代のアフリカでもこの蓮は特別な植物とされていて、人が蓮の花から再生するという絵が残っているということを聞きました。だとすると、「蓮」という植物を神聖なものとするのはアフリカから、日本まで、非常に広い地域ということになります。中国でも韓国でもベトナム、タイ、マレー半島、スリランカ、インドネシアで「蓮」は神仏を荘厳し、衣服にデザインされ、また建物の装飾として使われているのを見てきました。そこにさらにアフリカが加わるとなると、「蓮」のイメージを共有する地域はとても広いものだと考えられます。東アフリカとスリランカは古くから航海ルートでつながっていたことを示す証かもしれませんね。

 

 

 

世界遺産シギリヤロックの壁画美女たち

 

 スリランカ3日目は世界遺産のシギリヤ・ロックに登りました。5世紀、カーシャパ王子(477495 A.D.)はアヌラーダプラにいた父王を殺し、弟モッガラーナ王子らから逃げるために、シギリヤに居城を造ったと伝えられています。緑の大地に突然大きな四角い岩山が突き出ているような景観に、とても不思議な感じを受けました。岩山の麓には美しい濠や池、美女たちを遊ばせたというプールが整備されています。先史時代から人が住み、紀元前の村の遺跡もあるというこの地域は5世紀の時点でもすでに僧院などのある場所でした。美しい水の庭は今でも静かで、落ち着いた雰囲気を持ち、小さな猿たちの遊ぶすてきな所です。

 

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岩に向かって真っすぐの道を歩くと、そのうちに階段が始まり、頂上までの高さ約200メートルというほとんど垂直のような岩山に取り掛かり、高度を上げていきました。巨石のゲートにはさまざまの名前がつけられていました。半ばくらいのところには有名なシギリヤ・レディと呼ばれる美女たちの壁画があります。豊かな胸と細いウエストの女性たちの絵が残っているのです。菩薩たちのような髪飾りや胸飾りをつけ、腕にも手首と二の腕の両方に飾りをつけ、大きな輪っかの耳飾りをしています。彼女たちは、世界の各地から集められた王宮の美女たちとも、インド神話に出てくる水の精とも言われているようです。水の精アプサラスは王や英雄の凱旋を寿ぎ、花を散らすという妖精たちです。この壁画の描かれている部分は140メートルにも及んでいた、という説もあり、500人の美女の絵があったといいます。今は18人の姿が見えるだけですが、それぞれに蓮の長い茎を持ったり、花かごをもったり、小さな花をつまんでいたりして優雅な空気を醸し出しています。城への道の途中にある「鏡の壁」と言われる部分には6世紀から⒕世紀にわたる落書きが残されているのですが、その大半はこのシギリヤ・レディを称えるような詩であるということです。

 

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壁画はこのシギリヤ・レディの部分だけでなく、麓に近いところの岩のへこみ部分にも残っていました。天然のデッキのような岩棚に美しい模様のフレスコ画を描いて、王様の庭にふさわしい優雅な空間を作っていたのでしょうか。今でも私たちは縁側やベランダのような半分外のような空間で風にあたっているとき、一番リラックスできるような気がしますが、シギリヤの王宮でも、そうした場所が作られていたのかもしれません。

 

 

 

さて、壁画の後にはさらなる登りがあります。オーバーハングの大きな岩を見ながら行くと、眼下には緑の森林が広がっていき、そのうちにライオンの脚だけが残るゲートに着きます。当初はライオンの口から入っていくような門になっていたそうですが、今は大きな爪のある足先があるだけです。ここからは階段で頂上まで一気に上ります。頂上からは湖も見えて、王宮のさまざまな施設の跡が見て回れました。父王の殺害という重い事実を抱きながらカーシャパ王はここで15年を過ごしたということです。天空の城のようではあるものの、そこから降りられないという状況の中、王はどのような気持ちで広がる緑の森を眺めたのでしょう?

 

 

 

ダンブッラの石窟寺院

 

 今回、私たちはダンブッラという街のバワ(Geoffrey Bawa 英国で学んだコロンボ出身の建築家。今でもスリランカには彼の建てたリゾートホテルなどがあります)の建てたヘリタンス・カンダラマに宿をとったのですが、この近くにも石窟寺院があり、見学に行きました。この辺りの石窟には先史時代から人が住んでいて、紀元前1000年ころには巨石を使った墓地なども作られていたようです。現在残っているのは18世紀から19世紀に壁画の描かれた寺院で、多くの仏像が祀られています。壁画の仏は力強く、明るい顔で、頭の上に焔をつけたような像がほとんどです。スリランカの仏像はタイの仏像に似ていますが、もっと肩幅が広く、明らかに男性の姿をしています。大小いろいろな大きさの立像や座像があり、中にはストゥ―パを守るように周囲で座禅を組む像もありました。壁画は大日如来を囲む千仏、初転法輪の場面、スリランカに初めて仏教が伝えられた場面、マーラ神の軍を表す武具をつけた怪物の群衆の絵などがありました。

 

 

 

 壁画は全体として赤い色が多く使われており、日本の寺院とはまた異なる独特の温かさが感じられるものでした。シギリヤ・ロックの麓の売店で買った“The Cultural Triangle(UNESCO Publishing・CCF 1993)という本によると、ここの壁画に描かれているのは仏陀の降誕やマーラ神の娘の誘惑という仏伝の他、スリランカの仏教の歴史を描くものもあるということです。

 

 

 

仏像に混じって王様の像もありました。ここダンブッラ石窟には12世紀の終わりごろに、ニッサンカマーラ王が訪れ、寺院を置き、大日如来の大きな絵を描かせたそうですが、17世紀から18世紀にかけて、再びキャンディの王たちの信仰の場として、この石窟寺院が整備され、キャンディの絵師たちによる壁画制作や修復が行われました。同時代の日本でいえば徳川家にとっての寛永寺か知恩院のようなところなのかもしれません。仏教がそれぞれの国で受け入れられて、異なる宗教藝術を遺していることは本当に面白く感じます。ただし、この石窟の天井画や壁画は19世紀、20世紀にもたびたび修復が重ねられているようで、9世紀頃から寺院が造られたとはいうものの必ずしも古いものばかりということではないようです。しかし、それは人々の信仰が何代にもわたって続いているということの証とも言えますね。

 

 

 

アヌラーダプラの大きなストゥーパ

 

 シギリヤとダンブッラの石窟寺院を尋ねたあくる日には、アヌラーダプラの遺跡を見学に行きました。ここには紀元前からの寺院や遺跡があり、40平方キロメートルという広い範囲に5つの大寺院、大ストゥーパ、仏像、博物館、それに釈迦がその下で瞑想をした菩提樹から株分けをしてスリランカにもたらされたとう伝説を持つ菩提樹などが点在しています。

 

まず最初に北の僧院アバヤギリという所に参りました。ほとんど人影の見えない朝の遺跡群の中、青い空の下で、大きな赤い煉瓦建てのまあるいストゥーパの向こうから湧き上がって来る白い雲を見るのはなかなか感動的でした。アバヤギリ・ヴィハーラとは、仏教者の共同体であるサンガを意味していて、紀元前2世紀に創始され、紀元前1世紀には各国からの修行者を集める研究の場となっていたと考えられています。紀元前89年から77年にこの地を治めていたバッタガマーニー王は南インドからのタミル勢力に押されていましたが、それを撃退し、宗教的なシンボル、かつ自国の復活のシンボルとしてこのアバヤギリを建てたということです。スリランカというとすぐに小乗仏教の国、という人がいますが、このアバヤギリは大乗仏教の大本山として、人々の信仰を集めてきたそうです。2000年以上の仏教の歴史の中では、さまざまな仏教集団が生まれ、盛衰があったようです。

 

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中国の僧、法顕は412年にこのアバヤギリを訪れており、ここで仏法の研究をして2年間を過ごしました。その後も7世紀まで、中国、ジャワ、カシミールとの交流を続けながら、アバヤギリは仏教研究と仏教教育の地として発展しました。アバヤギリ大塔近くの白い建物の博物館には、この地が古代から中近東や地中海の国々・アジアの国々と国際的な交流をしていたという証拠として、コインや装飾品・金属の道具類が集められていました。遺跡群の木立ちの間に立つこの白い建物はイギリス統治時代の1937年に建てられ、当時は議会の建物であったことが解説のプレートに書かれていました。

 

 

 

博物館はもうひとつあり、赤い大きな二重屋根のものがありました。こちらには入口正面に白い仏座像があり、南国の大きな葉をつけた樹木の茂る庭の小道を行くと、奥に白い仏様が待っていてくださるようなところです。寺院の建築に使われていた石彫や供養者の名を彫り込んだ石などもありました。もうひとつ、地図に民族博物館と書かれた所にも行ってみました。ここは、簡単な屋根だけの建物に石碑を集めてある場所でした。丸い文字はシンハラ語の文字でしょうか? 解説のプレートがついているものには、大抵、供養者の名前と先祖の後生を頼む文言があるように書いてありました。中国でも韓国でも、日本でも仏像の台座に、造像を依頼した人の名があり、父母の為に、とあることと同じだなぁ、と思いながら見て回りました。

 

 

 

首都コロンボの国立博物館

 

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ダンブッラから再びコロンボへ戻って来た翌日は国立博物館に参りました。白い西洋風のお城のような建物の入り口では堂々とした体躯の仏座像が置かれていました。美しい仏像です。博物館では入場料の他、カメラで写真を撮ってよい、というチケットやビデオを撮ってよいというチケットを別に売っていました。アヌラーダプラの博物館では撮影禁止であったので、料金を課されるといっても、カメラがOKなのは助かります。

 

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仏教の盛んなこの国らしく、仏像や仏教に関する資料が多く展示されていますが、その他にも、ヒンズー教の神像、各地の遺跡から出土した宝飾品、器、外科の処置に使われた鋏やメスのような道具、薬を砕いた石製のグラインダー、お寺の入り口にあるムーンストーンという半円形の石彫や菩薩の姿をしたガードストーンの石、各地の彩色土器や布、剣、交易で入ってきた陶器、権力者の調度品、細やかな細工の象牙製品、横長のカード集のような経典、アラビア語で書かれた石碑、ポルトガル語やオランダ語で書かれた建物の石のスラブ、大きな東インド会社のマーク入りの壁石、各地の壁画の模写の中にはダンブッラの石窟で見た絵もありました。

 

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遺跡からの発掘物にはパネルで丁寧な遺跡紹介の解説がつけられており、ここが冷房のきいている博物館であったなら、いくらでも時間をかけて見学したいところでした。暑さに負けて、速足で回ってしまいましたが、つるりとした彩色土器はなんとも言えない味わいがあって、じっくり見ていたい思いにかられました。面白いことに、スリランカの農村で出会った婦人はやはり同じ形の壺をかかえて歩いていました。素材はアルミニウムのようでしたが、形は昔ながらのぽってりとした胴に細い首をつけたものでした。何か、民族の血が受け継がれているのを見た気がしました。

 

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スリランカの博物館では英語で書かれ、写真もついているというような図録はあまりなく、残念に思いましたが、それでもアバヤギリでは唯一残っていた “The Art and Archaeology of Sri Lanka” という本を買い、国立博物館では ”Traditional Textiles in the Colombo National Museum” そしてシギリヤでは “The Cultural Triangle” という図録が手に入りました。旅で忙しく見て回ったものが、いったいどういうものであったのか、本を読んで振り返るのもまた楽しいものです。それでも、機会があったら、またスリランカに行ってみたいと思っています。

 

 

 

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