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ベゼクリクの誓願図

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 NHKの「新シルクロード・シリーズ 第2集 トルファン 灼熱の大画廊」でベゼクリクの壁画についての話がでていました。話題になっていた壁画は『誓願図』と言われるもので、釈迦が前世にあったとき過去の仏たちへの供養をし、必ずや自分が成仏するという誓願をし、過去仏から授記(予言)されたありさまが絵になっています。
 
 数年前神田の古本屋さんで見つけた『西域の仏教 ベゼクリク誓願画考』(村上真完著 第三文明社 1984年発行)という書物によれば『誓願図』という言葉はグリュンウェーデルやアルベルト・フォン・ル・コックらドイツの学者が命名したものだそうです。
 グリュンウェーデルはインド美術、ことにジャータカ物語(釈迦本生譚=釈迦の前世の物語)にくわしい人物で、当時、西域をめざしたわが国の大谷探検隊にとっても手強いライバルでした。また、番組でも取り上げていましたが、ル・コックは1905年にベゼクリクの第9号窟寺(グリュンウェーデルのつけた窟寺番号。スタインの番号では第5号 現在の番号は第27号?)の壁画を切り取ってドイツに送り、ベルリンの民俗学博物館に展示していました。第2次世界大戦の空襲で壁画が失われてしまったことは、本当に残念なことでしたが、ル・コックの出版した『ホチョウ(Chotscho, Berlin 1913))』にはその図版があり、誓願画研究に大いに役立っているようです。

 ベゼクリクにある誓願図の内容は、全てが解明されたというわけではなく、研究はまだまだ続けられている段階のようですが、壁画にはサンスクリットの銘文もついており、他の経典などにも同様の物語がみつかっています。
  物語は「過去仏は○○であった私(釈迦)によって供養された」という形になっていて、図の方では過去仏が画面の中央に大きく描かれ、その脇に王様であったり、バラモンであったり若者であったりする釈迦の前世の姿があります。 

 ベゼクリクのある土地は、前漢の頃から交河城(Yarkhoto)を都とする車師前国があり、B.C.1世紀には漢人が入ってきていました。 329年、前涼国は高昌郡を置き、その後、後涼、西涼、北涼もこれをついでいましたが、450年、北涼の一族が車師国を合わせ、高昌国を建設しました。高昌国といえば、玄奘三蔵がインドに旅するとき、国王麹文泰(きくぶんたい)に引き止められ、玄奘は国王の願いには添えないとして、食を断って抗したところ、王は帰路に3年間高昌国にとどまることを条件に20年分の金品をもたせて送り出したという仏教王国でした。
 玄奘三蔵が長安を出発したのは629年のことで、640年帰路に王との約束を果たそうとしたところ、高昌国は唐の軍隊によって滅ぼされていた、ということも、この地が要衝の地であり、古来多くの民族が行きかう場所であったことをあらわしています。
  
 唐の直轄地としては8世紀後半まで続くものの、今度はチベット族(吐蕃)とウイグル族の争いの舞台となり、9世紀中ごろに西ウイグル王国が建てられました。ル・コックが剥ぎ取った壁画について、『西域の仏教』では9世紀前後のもの、としていますが、番組で紹介されていた「15号窟」の年代は11世紀と言っていました。
 つまり、この地は非常に長い間、仏教王国として存在していたということになるのでしょう。わが国の大谷探検隊が、このトルファンから3世紀から7世紀にかけての経典の断片を持ってきていることも、この地の仏教の歴史の長さと熱心さを物語っています。

 私は、番組で美しく復元された壁画の様子を見ながら、なぜ誓願図が描かれたのか、ということを考えました。9世紀の窟寺や11世紀の王族の寺院で、王であったり、バラモンであったり、河を渡る舟を差し出す隊商の頭であったり、という釈迦が描かれたのはなぜか? 燃灯仏(ディーパンカラ正等覚者)に捧げる花が見つからなかった青年スマティが若い女性から花をもらい、それを燃灯仏に差し出し、にわかに降った雨で生じた泥水に自分の結髪を敷いて仏の足元を守り将来の成仏を約束された、という物語に、昔の人たちは何を感じていたのでしょう?
 
 それは、「希望」をつなぐ絵だったのではないでしょうか? 永遠に近いほどの昔から、釈迦は繰り返し授記され、そうした後に成仏した、という物語は、今の時点で王であったり、修行者であったり、あるいは隊商の頭である人々に「仏を供養していれば、いつか自分も成仏できるのだ」と信じさせる絵だったのではないかと思うのです。それは、逆に言うと現実を肯定し、今の職業のまま、今の身分のまま、出来る限りの供養を行えばいいのだ、というメッセージのように感じられます。
  兎が火に飛び込んでしまうなど、本生譚には自己犠牲のテーマが多く、すべてを捨てたところに成仏できる可能性を示しているように思われますが、誓願図の物語はすべてを捨てるということは言っていないのです。

 日本の僧侶のなかでも、この誓願の物語にあこがれていた人がいます。京都 栂ノ尾の高山寺に住した明恵上人(1173〜1232)です。

 をがみつる しるしやここに とどまらむ かみをしきてし あともきえねば(和歌集)

という歌の詞書には、彼の生誕地であり、修行の場であった紀州からの帰りに霧の中の塔を見て感動し、馬から下りて往来の汚い所にもかかわらず額をつけて泣きながら礼拝していると、釈迦が前世で燃灯仏に出会い、泥に髪を敷いて踏ませたという故事が思い出された、ということが書いてあります。
 
 おそらく、古代、中世の中央アジアの人々も明恵上人が感じたように、大地に礼拝している時、ふと泥にまみれる自分の髪をみては将来の成仏に希望をみたのではないでしょうか。いつかは、という希望のあることは大切なことです。希望があれば、人は今を大切にするのだと思います。今の日本にそれが少なくなっているような気がするのは、私の思い過ごしだといいのですが。

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コメント

TBありがとうございます。
私は自分の旅行に関連してアジアの美術などにも興味を持つものですが、このブログの記事を読ませて頂いてその専門的な立場からの記述に感心しました。今後も覗かせて頂きますのでよろしく。

新疆ウイグル自治区の中心に程近い処にトゥルファンと言う街が有ります。其処で最も名高い「ベゼクリクの千仏洞」と言われる石窟寺院群がありますが、その内部には見事な構図を持った極彩色の「壁画」が有り、そこに描かれた絵は成仏前の若い釈迦その物の「佛伝」である事は既に世界中の多くの人々が知るところである。しかし、私はこの「佛伝」が一般に「誓願図」と総称されていて、十数枚の極めて類似した絵柄を持つ事を知ったのはつい最近の事である。しかし、私が此処で申し上げたい事はこの千年以上前に描かれた「誓願図」が世の中にそう幾つも存在する物でないと言う事に些かの興味を持ったと言う事です。「誓願図」の頂点と言われているこの「ベゼクリク」の「壁画」が此処以外の場所では発見されたと言う事例は全く無いのでしょうか・・・。では何故、現代だから持て囃されているのでしょうか、それともル・コックが剥ぎ取ってドイツに持ち帰ったが1942年の大戦の空襲で灰燼に帰した事が余計に不可思議な人気を博す事になったのではないだろうか、否そうではない寧ろ稀有な末路を辿った事で世界中の耳目を集める事になったのではなく、私は本来この「壁画」が世に知られた事自体が「佛伝」本来の持つ“人々を引き寄せる魅力”の成せる技であったのではないかと懐疑堂逸平の名をほしいままに過ごす私らしい感慨に耽る事となった次第です。そうこうしながらも十数年と言う月日が無為に打ち過ぎて終った近年、私の身近でもう一つの「誓願図」の存在を密かに触れ回る研究者の存在を知る事になったのです。この方の存在は昔から耳にしては居たが、懇意と言う程の仲ではなかったので自らが出向いてまで、その事実関係を知りたいとは思わなかったと言うのが本音でした。しかし、或る時その方が「誓願図」を2種蒐集されていて、その構図がシンメトリックな「佛伝」ならではの体裁を持ち、壁画独特の古色蒼然としていて、今にも朽ちなんとした保存状態で額装されていると聞くに及び、ならではとついに腰を上げる事となった次第であります。此処まで吐露すれば私以外にも、こうした風聞を耳にされた方も多々居られるかとも思い、もう少し時間と紙数が有ればその後の誠に稀なる「壁画」の流転とその顛末をお聞かせしたのであるが、夜も更けて嘗ての夜鷹の異名も何処へやら、瞼の重さが気になり始めた老い耄れ爺ィには流石に「三更の時」を告げられては最早身の置き処も無く、酷い加齢臭の漂う煎餅布団にそっと潜り込み、余りに早く逝かせた妻を偲んで、楚々と休眠させて頂く事と致します・・。依って、このお話の続きはまた何時の日にかとお約束申し上げてのお暇とさせて頂きましょう。不躾ながら私の名前は懐疑堂逸平と申します、勿論スタンディングオベーションでも頂ければ、早々と骸起きのまま懐疑堂饒舌居士の名に恥じない様にお喋り致す所存ではございますが、この後も何卒ご高配のほどをと念じてひとまずオヤスミさせて頂く事と致します・・・・嗚呼。ちょおl

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