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岡倉天心とその弟子たち

 rokkakudo

 28日の土曜日、ワタリウム美術館が主催する「五浦(いづら)散策」の会に参加しました。同美術館は現代美術の美術館ですが、7年ほど前から岡倉天心研究を始めており、さまざまなイベントを催しているそうです。私はつい最近になってこのことを新聞で知り、今回、参加させていただくことにし、茨城大学の所有する五浦美術文化研究所を中心に、岡倉天心ゆかりの地を歩いてきました。講師は茨城大学教育学部教授の小泉晋弥氏で、総勢30名ほどの参加者とともに、天心の旧邸、彼が思索をしながら過ごしたという有名な六角堂、恋人の髪といっしょに天心の髪が埋められているという土饅頭の墓、日本美術院研究所の跡地、そして「岡倉天心記念室」を持つ茨城県天心記念五浦美術館などをまわりました。

 上野発の特急で水戸まで約1時間20分。常磐線の普通に乗り換えて約1時間ほどで大津港という駅に着きました。ここから車で10分ほどのところに五浦美術文化研究所はあります。近くには茨城県内随一の施網漁港・大津港があり、おいしい魚の食べられるところです。私たちもまずは昼食ということで、天心の船頭をしていた渡辺千代治さんのお孫さんが経営なさる天心丸という料理屋さんへ行き、魚をごちそうになりました。食べながらお爺様やお父様から聞かれた天心やその娘さんたちの話を伺いました。

 天心は地元茨城出身の画家、飛田周山の案内でいわき市から五浦まで、海岸の別荘を探し歩いていましたが、ここ五浦の景色が気に入り、明治36年5月土地を購入しました。東京美術学校(現、東京藝術大学)の校長であった天心はこの5年前に職を辞し弟子たちとともに日本美術院を創設、新しい時代の日本画を創り出そうとしていました。そんな中、五浦という土地を見つけ、弟子の横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山を呼び寄せることになるのです。

 トラブルがあっての辞職、世間では大観たちの絵を朦朧体と落としめており、彼らにとっては何としても素晴らしい作品を描こうとしていた時期だったそうで、当時まだ若い画家であった安田鞍彦は彼らを「禅堂の座禅僧」だと感じたという話が伝えられています。広い畳の部屋に4人が並んで絵を描いている、あの有名な写真の日本美術院研究所は切り立った崖の上に建っていましたが、彼らの気持ちもまた、そのような緊張したものであったかと思われます。
 天心はというと、ここ五浦に住みながらも大正2年(1913年)秋に赤倉の別荘で亡くなるまで、アメリカのボストンに6回(ボストン美術館の中国・日本美術部の仕事をしていました)、中国に2回、ヨーロッパに3回、インドも再訪しているのです。旅行には船が使われたあの時代、なんとタフな人だったのでしょう。

 もちろん、禅堂の修行の成果はあらわれ、都落ちと揶揄された日本美術院はふたたび文展でその大きな存在を認めさせました。天心がいかに先見の明があったかということを示す話として、小泉先生が彫刻家・平櫛田中(ひらくし でんちゅう)のことを教えてくださいました。平櫛田中が「活人箭」(天心記念館内に展示してあります)という木彫の作品を作った折、弓矢など小道具を持たせず、矢を射る姿を表現しろと言い「ロダンのようにやってごらん」ということを言ったというのです。天心はヨーロッパでロダンを見ており、そのすばらしさを知っていたのですが、ちょうどその頃、ロダンについて勉強してきたフランス帰りの作家の作品は文展に落選する、ということが起きていました。その理由も作品が未完に見えるから、という本質をみないものであったということです。
 田中は以来、天心を崇拝するほど慕い、亡くなった後は自身で作った天心像を金色に塗り、裏には「釈天心」と書いて拝んでいたそうです。(天心記念館内に展示してあります)後に東京藝術大学で教える立場になってからも、大学に納めた天心像に挨拶をしてから学内に入っていき、墓前に行く時は座布団と線香たてを持参して長いこと話しこんでいた、という逸話さえあります。

 こうした天心と弟子たちの強い信頼関係はどのようにして生まれてきたものなのでしょうか? 天心は決して完全な人ではなく、社会人としては愛人問題があったり、職業上のトラブルがあったり、喧嘩もする、という人だったようです。それでも弟子たちにとって魅力だったのは、やはり広い視野でものを見る眼と本質を掴み取る能力のあったことがその理由だったのではないか、と思います。横浜生まれで、幼い頃から英語塾で語学を身に付け、13歳で開成学校(今の東京大学)に入学、17歳で結婚、18歳で東京大学を卒業して文部省に入省。確かにエリートですが、それだけにとどまらず、世界を歩き、さまざまな問題意識を持っていたように思われます。それは、単に語学ができたとか、海外を歩いたからということではなく、誰とでも話をできる柔軟さがあり、さまざまな分野について興味を持っていた、ということなのではないでしょうか。
 建て替えられているところはあるものの、天心の邸をみるとさして贅沢な造りではなく、自由な建て方をしてあります。また、あの有名な六角堂も宮大工などではなく、地元の棟梁に造らせています。こんなところを見ると海のそばで思索する場を作る、とか弟子たちが共に静かに絵の描ける環境をつくる、ということが重要で、瑣末なことにはこだわらないおおらかさがあったように思うのです。
 もう十数年も前になりますが、松江に行った折、手作りの茶会をする人たちがいる、と聞いて出かけたことがあります。男性ばかりのグループで、茶室も手作り、当日の点心(軽い食事)も手作りで、楽しくお茶をいただいたことがありました。天心の六角堂や邸の中に入った時、何か、その時の茶会に共通するようなものを感じました。それは、余分なものを削ぎ落とした簡素な印象でした。贅沢というものが単に金銭をかけるということではなく、自分の大切にしたいものを本当に守っていく、とでもいうのでしょうか。天心にとって、五浦とは、そのような大切なものを守ってくれる土地だったように感じました。
 
 先日、池之端の横山大観記念館に行ったときに感じたことですが、数々の傑作が生まれた画室は意外に普通の部屋でした。ただ、自然光が取り入れられるということや、近くに自然の景色がある、という大事な部分は大切にされていました。ともすると、私たちは最近、傑作は素晴しい環境からしか生まれないように錯覚してしまいますが、そんなことは関係のないことなのかもしれません。贅沢をするときには「何を」贅沢するのか、と自問したほうがいいのでしょう。

 波乱の人生を駆け抜けた天心は51歳で亡くなる直前まで、インドの詩人プリヤンバダ・デビ・バネルジーと文通しており、すてきなラブレターを残しているのですが、その病床からの手紙でも今、自分が非常に満足しているということを伝えています。自分にとって大切なものだけは決して譲らず、思う存分に生きた人生だったからなのでしょうか。 
 私も、せめて自分にとって何が大切なのかを自覚しながら生きていきたい、と考えながら五浦を後にしました。

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コメント

共感しました。
自分にとっての贅沢と大切なもの、
幸せと思える時間をたくさん過ごしたいと
思います。
その時々で、考えも環境も変わっていくと思うけど
心がけたいです。

●いまは選択肢の豊富な時代。本当の自分の気持ちを大切にすることが、案外むずかしいんですよね。つい目の前のことに飛びついてしまって、自分を見失う・・・。私の子どもたちも、よくおもちゃ屋さんでいらないおもちゃを買ってしまっていました。

TBありがとうございました。
とても興味深く記事を読ませていただきました。

弟子たちにここまで慕われた天心と言う人をココロの底から凄いと思います。

天心が過ごした五浦という場所にぜひ一度行きたくなりました。

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