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『手仕事の日本』と柳宗悦

bashoufu
 

 高校生で岡倉天心を知ったのと同じ頃、柳宗悦(やなぎ むねよし)という人のことも本で読み、その存在をふたり一緒にして覚えました。とは言っても、岡倉天心は1862年(文久2年)の生まれ、柳宗悦は1889年(明治22年)の生まれで、世代としたら一世代あとの人になります。しかし、日本の美しさについて啓蒙してくれたという点では同じように功績のある人で、やはり今、思い出すべき人のように思えるので、ご紹介いたします。

 その時読んだ本は岩波文庫の『手仕事の日本』と『民藝四十年』でした。『手仕事の日本』は、柳宗悦が20年ほどを費やして日本全国から集めた工芸品について地域ごとにまとめた本で、ですます調の優しい語り口で関東、東北、中部、北陸、近畿、中国、四国、九州、沖縄の9つの章でそれぞれの産地の織物、焼き物、紙や籠といった生活の道具について紹介しています。執筆したのは昭和17年から18年にかけてということですが、太平洋戦争のために本になるのは時間がかかり、初版が出たのは昭和23年の6月5日だったということです。

 挿絵には芹沢銈介(せりざわ けいすけ)の描いた器物が使われていますが、この絵について、柳宗悦はその序で次のように述べています。

「準備された沢山の小間絵(こまえ)は不幸にして戦災を受け悉く烏有に帰しました。そのため再び芹沢銈介君の手を煩わして、凡てを描き改めて貰わねばなりませんでした。しかも前よりも一段と数多くのものが届けられました。これらの小間絵はきっと読者の目を楽しませることと思います。」

 確かに、この絵のあることで『手仕事の日本』は幼いときに読んだ童話のような雰囲気を持っています。文庫本でさえ楽しめるのですから、元の版はきっともっとすてきだったと思います。ついでに言えば、彼ら民藝運動の雑誌『工藝』も写真でしかみたことはないのですが、美しい装丁のもので、昭和6年から26年までの間に120号が出版され、その後の古本市場では高値をつけるもののようです。

 『手仕事の日本』のなかでは、今はもう消えてしまった道具や工芸品も多く語られていますが、織物などに関しては現在も営々と作られ続けているものも多くあります。たとえば関東の結城紬について、
 「土地の人はこのやり方だけが生む織物の佳さをよく識り、道を守って仕事を崩しません。」と言い、結城紬の品質の良さを讃えています。また、沖縄については、
 「面白いことには沖縄では、島によって違うものを織らせるようにしました。これは島々の経済を無駄な競争から救う賢明な道であったと思います。」と述べ、八重山の白絣、宮古の紺絣、久米島の紬、芭蕉布の紹介をしています。
 
 日本がアメリカ型の一人勝ち経済を追っている今、柳宗悦のこういった言葉を聞くと、われわれの行く手には別の道もあるのではないか、という思いも起こってくるのですが、いかがでしょう。環境を考えたり、心の豊かさとか、個人の幸福感とかいったものを考えると、手仕事のある社会はこれからの日本のひとつの選択肢に入ると思うのですが…。スローライフもインターネットのような通信手段と便利な配送ネットがあると実現するかも、と思うのはユートピアを考えすぎでしょうか?

 とはいえ、結城紬も芭蕉布も、今では非常に高価なものになっています。先日も銀座のとあるお店で芭蕉布を使ったジャケットが十数万で売られていたのを見ました。上着の一部に使っただけでもこの値段ですから、着物にする反物ではおそろしい値になるのでしょう。ちなみに、この店、もともとは秩父の反物を扱っていた呉服屋さんであったのが、今では反物を置かず、和布を洋服に仕立てたものを置くようになっていました。柳によれば、秩父は銘仙という織物の産地だったのですが、今は残っているのでしょうか?
 では、もう誰も着物など見向きもしないのか、と言えば、そんなこともないようです。本屋さんの女性誌コーナーには中年の女性向けの着物の雑誌の他に、若いお嬢さんがポップに楽しむ着物の本もたくさん出ていますし、インターネットをのぞいても、古着の銘仙を着てお出かけしました、などというホームページをよく見かけます。つまり、古いものが見捨てられているのではなく、経済の効率に合わない、とか何か別の理由で社会から消えているような気がします。本当はみんな、手作りのものが好きなのです。

 先日、五浦に行く折、工場の跡地のようなところや閉店してしまうスーパーマーケットを見ました。地方の経済は景気が回復傾向にある、といってもなお厳しそうです。若い人たちに仕事がないという状態は早く解消されるべきです。地方自治体や国が伝統工芸産業の育成にもっと力をいれたら、観光立国という点でも、良いと思うのですが、そう簡単なことではないのでしょうか?

 ささやかな贅沢として、靴やバッグを作ってもらうというのも静かなブームのようですし、家具や鉄格子のようなものを特注するということもよく聞きます。確かに、いつまでも錆びないアルミ製の工業製品は便利ではあるけれど、愛着は涌きません。自分だけのもの、自分のセンスを生かしたものを身の周りに置くことは人生を美しく、楽しくしますから、きっとこうしたことが流行るのでしょう。
 この『手仕事の日本』にでてくる工芸品が単なるお土産品ではなく、私達の生活にもどってきてくれると嬉しいな、と思ってしまいます。

(写真: 蜻蛉の羽のような薄い布、芭蕉布)

(柳宗悦が全国から集めた工芸品は東京駒場の日本民藝館で見ることができます。)

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コメント

郁さんへ

いつも興味深いプログ拝読しています。

日本の工芸の今後のあり方は、悩み多いと聞きます。後継者の問題もありますし、従来の徒弟制度では若い方はついていかれません。

ところで、今後の日本の工芸のあり方として、日本の工芸市場の対象を世界に広げる視点が必要です。日本国内だけの市場で考えないことが求められると思います。例えば、次のような例が挙げられます。


一つは、新しい感覚のモノづくりです。京都のある会社はイタリアのデザイナーにデザインさせて、日本の工芸技術を活かして、モノづくりをされています。そのことによって、作るほうも新しい感覚に刺激されて、製作はなかなか大変なようですが、活性化しているようです。若い方々は、そういうことであると、製作することに興味を示されるかもしれません。

もう一つは、ご存知のように、日本のデザインをアジアの国々に作らせて、工芸技術をアジアに移転しているケースです。これですと、日本国内に技術が継承されないため、技術が消滅してしまう可能性はありますが、現在の日本の状況からして止むを得ないとも思います。日本の人件費が高すぎて、技術の継承が事実上不可能だからです。そして、仮にそうなっても、日本の工芸は世界のどこかに残ることになります。残念ですが、仕方ないと思います。

また、話は変わりますが、女性を中心に趣味的な嗜好による工芸品の拡大は可能性がありそうです。出来るだけ、製作現場を彼女等の目に付くような工夫も求められると思います。彼女等はオリジナルなものが欲しいので、また基本的に競争を好まないので、棲み分けも可能と判断されます。

いずれにせよ、従来の発想では、日本の工芸は厳しそうです。新しい展開に期待したいものです。

●流風さん、コメントありがとうございます。
 なかなか日本も難しいですね。できれば作る人と使う人が近くにいるというのが幸せな雰囲気になると思うのですが・・・。でも、なんとか美しい手工芸が残っていけばいいですね。

こんばんは。
私も以前、伝統工芸の道を考えたことが
あったのを思い出しました。
日々の生活と、遊びと楽しいことばかりに
流されて、すっかり遠い記憶になっていました。
丁寧に作られたものを身の回りに置いて、
大事に長く使えることは贅沢でもあるけれど、
理想だなあ・・と思います。

●ぷちさん、こんばんは。
丁寧に作られたものを見ていると、これを作った人の時間はどんな風に流れていたんだろう、と思います。伝統工芸の世界では、とても手のかかることや時間のかかることが多いです。でも、そこから生まれたものには力があって、元気づけられるような気がしませんか?

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