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「関野貞アジア踏査」展 シンポジウム

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 土曜日は東京大学総合研究博物館で開かれている「関野貞アジア踏査」展に行きました。出かける前にHPで確認してみるとなんとシンポジウムが行われている、ということを知り、途中からでも聞いてみたくなり慌てて出かけました。 ですから展示については、この次ということで、今日はシンポジウムを聞いての感想を書いてみます。

 関野貞は慶応3年(1867)生まれ、越前高田で育ち、のち東大の前身である工科大学で学び、奈良県の技師となりました。ここで奈良の古社寺の修理や研究に従事することになって、法隆寺の瓦の研究や法起寺、唐招提寺の修理などを手がけました。
 有名なのは、1905年発表した法隆寺非再建論。喜田貞吉との間で、法隆寺が再建されたものなのか、非再建のものなのかという論争をし、周囲を巻き込んでの論争が長く続きました。若草伽藍跡が発見されて後は定説は再建ということになっていますが、この法隆寺についてはまだまだ謎が多く、一概に「では、関野貞氏の負け」ということにはならないようです。

 それというのも、日本の江戸時代は私達が思う以上にさまざまな学問があり、「考古学」も江戸の後半からはあったと考えてよいそうですが、それを「近代の考古学」にしたのは、この関野貞という人だったからです。彼の様式論的編年学を用いる方法が考古学を科学的な学問にしたということで、彼は大いに評価されているのです。

 今回のシンポジウムは考古学、日本建築学、中国建築学の方たちが集まり、さらに韓国や中国の研究者も参加してのものでした。こういった異なる分野の研究者が集まることは珍しいそうです。これも関野が非常に幅広い分野を大きな視野で捉えていたため、それを今の研究にあてはめると多岐にわたる、ということでした。
 彼のフィールドノートなども建築の調査に行った時でさえ、石碑や銘文などのことでいっぱいだった、ということを聞くと、明治の頃の役人や学者が精力的に、自分のできること全てをやっていったからこそ、今の日本があるのだろうな、と思われ、感心してしまいました。
 また、京都大学人文科学研究所の田中氏は、彼が少年時代に受けた教育の素晴しさについても一言触れていらっしゃいました。越前高田藩での基礎的な学問がその後の研究の力になっていった、と聞くと、そうした江戸から明治にかけての地方の教育がどのようなものであったか、知りたくなりました。

 しかし、関野貞の時代はとても大変な時代でもありました。ちょうど日本が帝国主義になり、朝鮮、中国に入っていこうとした時期でした。学者といえどもこうした国の動きに無関係でいられるはずもなく、国かあるいは軍の意向を受けたのではないかと思われる調査や発言というものもあったようです。
 今、韓国や中国との関係がまた微妙なものを含みつつある時、日本の帝国時代の学者の評価をするということは、それらの国の研究者にとって、どのようなことなのでしょうか? 東京大学生産技術研究所にいらっしゃる徐さんは、「『挾間』にいる私の体感」という言葉でその苦しさを表現されていましたが、同時に、対話をすることで相互の歴史認識が進んでいくのだから、今回のような機会を持ち続けることが必要なのだとおっしゃっていました。

 私は古代の瓦にしても、仏像にしても、朝鮮・中国抜きにはなにもなかったということを美術品を見ることで知りました。また、古代の日本のことを考えると、ある意味では近代の国際関係よりも自由な感じも受けます。実態がどのようであったかは、まだまだわかりませんが、その自由だったかもしれない古代を考える現代の私達の方が国家という枠に縛られているとすれば、悲しいことです。
 たとえば、中央アジアから地域ごと、時代ごとに変化しながら日本にやってきた唐草文様のことを考えても、「変化」はあっても基本は「共有」されています。そのことを知れば、憎みあう線引きのための国家でなく、「くに」はゆるやかな変化の帯くらいのものにしかならないと私には思えるのですが、いかがでしょう? 司馬遼太郎さんは「近代になって国家が重くひとりひとりにのしかかっていった」という言い方をされていましたが、そのように重い国家でいいのかどうか、ということを考えてしまいます。

 関野貞は昭和10年(1935年)、亡くなりました。それからすでに70年の月日が経っていますが、現代の私たちは、まだまだ彼の残していったものを整理しきれてはいないようです。今度はそうした彼の業績を実際の物の面から見に、東大総合研究博物館に行こうと思います。


(写真は会場でいただいた「高句麗壁画古墳展」のちらし)

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