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高句麗壁画と明日香・奈良

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 東京大学で行われた関野貞のシンポジウムに行った折、「世界遺産 高句麗壁画古墳展」の招待券をいただいたので、見に行ってきました。場所は赤坂のツインタワービル1階、国際交流基金フォーラムです。
 この展覧会は2004年、7月に世界遺産に登録された「高句麗の首都と古墳群」を共同通信社が取材し、開催したもので、中国と北朝鮮にまたがる地域の紀元前1世紀から7世紀までの壁画古墳の写真と石室の再現、またビデオでの紹介もあり、関野貞らが調査した時の模写図も出陳されていました。

 平山郁夫氏が総監修をした図録の地図には、35の古墳が載せられていましたが、展示ではそのうちの16の古墳が取り上げられていました。展示は古墳の石室内を思わせる黒の内装の中、写真にスポットが当てられていて、集中して写真が見られる感じがしました。
 はっきりとは覚えていないのですが、80年代の中ごろにも1度、デパートの中のギャラリーで開催された高句麗古墳の壁画の写真を見に行ったことがありました。うる覚えではありますが、確か、安岳3号墳と江西大墓の写真が出ており、四神図がとても流麗な線で描かれていたという印象が残っています。

 壁画は4世紀、5世紀の頃は風俗画のようなものが多く、埋葬された人物たちの暮らしがどんなものであったかが描かれているようでした。りっぱな宮殿のような建物の中に夫婦が礼装をして座り、周囲には香炉を持った侍女や食事の用意をする女たち、あるいは臣下か貢物を持ってきた男なのかが並んでいたり、相撲をとる力士がいたり、飾り立てた馬にまたがり、自らも長い羽飾りのついた兜をつけた兵士の行列、牛車や馬をひく馬子、狩猟に出かける男たち。そんな絵が、あまり上手ではない筆で描かれていました。
 しかし、その絵の中では馬だけは、どれも上手に描かれているようにも見えました。人間や木などの表現がさほどではないのに、厩や流鏑馬のようすは生き生きと描かれており、この絵を描いた人々は北方の騎馬民族の流れを持った人たちだったのかしら、と思いました。
星宿の図も古くから描かれており、重要な画題であったようです。牽牛と織女が描かれていたり、北斗七星があったり、日本にも伝わっているものです。

 5世紀の末の双楹塚になると玄武、青龍、白虎、朱雀の四神が出てきます。明日香の古墳でも見られる文様です。また、忍冬唐草文や蓮華のような文様が美しい筆で描かれるようになりますが、それは、私たちが法隆寺や東大寺などの遺物の中に見るものと似てきます。この双楹塚の前室と奥室の境には八角の石柱が立つのですが、その上には法隆寺で見られるような人字型の割束が壁画として描かれています。わが国の壁画古墳や古代寺院につながっていくものが、ここにはありました。

 勉強不足で、詳しい文化の流れがわからないのですが、5世紀から6世紀にかけての高句麗壁画には神仙思想をメインにして、仏教の要素も入り、でもまだ未整理、という感じをうけました。ここで連想したのが中宮寺の『天寿国繍帳』でした。いろいろな要素が混ざりあっている雰囲気がそう思わせたのかもしれません。
 ところが、このことはそう、とんでもない思いつきではないことが、後でわかりました。帰ってきてから、以前にもご紹介した『壁画古墳の謎 日本古代史の原点を探る』(講談社)を読み返していると、森浩一氏の発言に、天井と壁の境に鉄釘の打ってある古墳があり、もしかするとそこに例えば『天寿国繍帳』のようなものを一定期間架けて死者を弔うことがあったのではないか、というものがあったのです。こうした古墳は関東などで見つかっているもので、終末期の古墳だそうです。

 もし、そうだとすると、所変われば品変わる、で、高句麗の古墳壁画は日本にきてから刺繍というものに替わっていったことになります。平安ごろから法隆寺などで使われたらしい星曼荼羅なども、源流はあの古墳の星宿図だったかも、と想像はどんどん広がります。

 『壁画古墳の謎』の中で、江上波夫氏は「高松塚の壁画にはいろいろなものが重なっている」ということを述べられています。群像の表現は唐、女性のスカートは高句麗、四神や日月星辰図は中国の六朝・・・・・・とさまざまな文化が流れ込んで、あの絵になっているというのです。その基調といえば高句麗だけれども、それだけではなく、いくつかの文化がミックスされて日本のものとなっているというのです。
 これが日本という国の特徴なのでしょう。ある意味では節操の無いほど、貪欲に多くのものを吸収してしまうのです。それは北からも南からも、半島からも大陸からも人がやって来たため、生物学的にもいろいろな脳を持つ人間が集まっている、ということかもしれません。こんな日本の特徴を、これからも活かしていけるといいのに、と考えました。

 ともあれ、日本文化の源流のひとつ、高句麗の古墳が世界遺産としてこれからも守られていくことを、喜びたいですね。

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コメント

高句麗の世界遺産は現在の中国に属する部分は保存が十分でなく、放置されていると報道がありました。国がまたがると、文化遺産の維持は大変ですね。

確か、高句麗→渤海→高麗の流れの中で、高句麗時代には日本に仏教が伝来し(教科書では百済しか教えられなかったが)、渤海時代には当時の中国と対抗上、日本の軍事支援依頼という意味合いもあり、日本に朝貢があったようです。多くの革製品がもたらされ、貴族で取り合いになったようです。渤海の衰退により、交流が絶たれたと聞きます。

高句麗→渤海時代に日本にもたらされた文化の内容がどのようなものなのか、知りたいですね。

渤海については、まだよくわかりません。
本は買ってあるのに、つい先延ばしにしてあります。
今度こそ読んでみます。

こんばんは。私もやっと、この展覧会に行ってきました。中国や朝鮮の壁画古墳って面白いですね。仏像や工芸品と違って、気軽に現地から動かすわけにいかないので、なかなか見る機会がありませんが...

私は7、8年前、中国の集安に行って、壁画古墳を1つ2つ見ましたよ。ほんとは、もっとたくさん見せてもらえるはずだったのですが、1週間前に韓国人のツアーが古墳内で騒いだため、観光客の立ち入りが急遽中止になってしまったのです。嘘のようなホントの話です。

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