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山田寺仏頭―白鳳時代の謎

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 東京国立博物館の本館正面を奥に入っていったところに、今、山田寺の仏頭がきています。わが国の有名な宝物をひとつ、この特別室に展示するのは最近の新しい試みのひとつではないかと思われます。春には中宮寺の半跏弥勒菩薩像がいらしていました。有名な仏像に東京で会えるのは、嬉しいことです。

 この仏頭は、蘇我倉山田石川麻呂によって創建された山田寺の講堂に安置されていた本尊のもので、天武天皇14年(685年 ただし、学者によっては前年の天武13年・684年という人もいらっしゃいます)に開眼供養されたものと伝えられています。
 推古天皇2年(594年)、仏法興隆が命ぜられて、多くの豪族たちは競って寺を立て始めました。蘇我倉山田石川麻呂もそうしたうちのひとりでした。彼は蘇我氏のうちの有力な人物のひとりで、大化の改新で活躍したそうですが、このクーデターの2年前にあたる643年、すでに山田寺の金堂は建立されていました。
 しかし、国家が建てる寺と違って、一氏族の建立する寺院は長い年月をかけて徐々にその体裁を整えていくことが多く、山田寺もゆっくりと建設されていたのでしょう。残念ながら蘇我倉山田石川麻呂は伽藍全体が出来上がるのを見ることなく、649年、異母弟の讒言によって不利な立場になり、自殺してしまいます。

 ですから、この仏頭は彼の37回忌に開眼供養をした仏像なのです。蘇我倉山田石川麻呂については、どなたの小説だったかに登場していて、何となく、礼節を知る品の良い人物のような印象があります。でも、それはこの仏頭の明るい堂々とした様子が私の頭の片隅にあって、その影響かもしれません。

 本当にすがすがしい表情の仏頭なのですが、よく本に載せられている写真では、少し口角が下がって見えています。私は1997年の興福寺国宝展で間近に見た折、驚くほど美しかったことを覚えていますが、その時々のライティングなどで随分印象が変わるもののようです。今回は残念なことに、私の背丈で正面に立つと台の一部にライトが反射して仏さまの顔がよく見えなくなってしまいました。

 ところで、この仏頭は白鳳仏の代表、と言われます。正面からの視点を重視した法隆寺の金堂釈迦三尊像に代表される飛鳥仏、東大寺法華堂の諸像に代表される見事なプロポーションの天平仏、その間の時代にあたる白鳳。しかし、この時代は、なかなか難しい時代のようです。というのは、「白鳳時代」という定義がはっきりしていなくて、学者によってその扱いがさまざまなのです。
 中国の北周・北斉時代の影響を受けたのが白鳳だとする説、百済観音も白鳳仏とする説、天武期に入った時代のものだけを白鳳仏とする説、白鳳の前期は飛鳥時代に、後期は天平時代に入れるべきとする説、天平様式の先駆的様式とする説、白鳳時代を前期後期に分けるべきとする説などなど、本当にいろいろな意見があるようです。どうりで学生時代、白鳳時代の代表作、と紹介されている仏像の写真が参考書によってまちまちだったわけです。
 「白鳳」という名前の美しさで、つい使ってしまいますが、最近ではあまり使わない方向に向かっていると聞きました。いくら美しい言葉でも、学問の論争をするのに曖昧な言葉は使いたくないからでしょうか。一般の者にも広く知れ渡っている言葉なのに、不思議なことですね。
 東京国立博物館の法隆寺館の小金銅仏も、この飛鳥から天平にかけての時代を考える良いテーマのようですが、今後さらに中国や朝鮮半島の仏像の研究などと合わせて考えていくと、より詳しい、正確なことがわかって「白鳳時代」という言葉がまたはっきり定義されていくかもしれません。

 中世、興福寺の堂衆が山田寺講堂から奪ってきた仏像が、その後応永18年(1411年)の火災で壊れ、その頭部だけが東金堂の本尊の台座にいつかしまい込まれて、昭和12年に見つかった……。こんな仏像の波乱の来し方もおもしろく、はちきれんばかりの豊かな頬の仏さまはとても魅力があります。
 

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コメント

 はじめまして、転機と申します。ある立場で東京国立
博物館にかかわっている者です(といっても東博の職員
ではありません)。

 東博には何度もお見えになってくださっているようで
ありがとうございます。ご存知かと思いますが、今は「
華麗なる伊万里、雅の京焼」展、25日から北斎展が開
催されます。今後も東博をごひいきの程、よろしくお願
い申し上げます。

 ところで興福寺仏頭はすがすがしい表情という印象が
強いのですが、下から見上げるようにして拝観すると、
むしろ威厳がある表情のように見えました。頭の大きさ
から推測すると、とても大きい仏像で昔の人も同様に思
っていたのでは、と思いました。


●転機さん、コメントありがとうございます。
 確かにあの仏像はかなりの大きさですよね。台座の上にあったでしょうし、相当見上げる感じになったのでしょうね。私は奈良の大仏って、最初はあのような顔だったのでは、と思っています。
 どなたか、CGで創建当初の大仏を作ってみてくださらないかと期待しています。

 ちょっと忙しくてまだ伺っていないのですが、伊万里と京焼も楽しみにしています。北斎も行きたいです。これからも楽しい東博のために、ご活躍くださいね。

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