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樂焼の父と母

Raku200609


 日本橋の三井記念美術館の一周年記念特別展「赤と黒の芸術 楽茶碗」を初日に見てまいりました。お話するのが遅くなったのは、私のなまけ心もあるのですが、少し調べたいことなどがあって、昔の図録や本を引っ張り出していたせいもあります。

 展覧会のメインの会場には樂の十五代にわたる作品が時代を追うように並べられていました。400年以上にわたる間の85点もの作品はずっしりとしていて、たやすく理解できるものではありません。しかし、代がかわるごとにパネルが掲げられ、その人の特徴や経歴が紹介されており、それを読んでから作品を見るので、それぞれの特徴が少しわかったような気がしました。

 暗いライティングの〈展示室1〉には長次郎の茶碗が並べられていました。ご存知のとおり、長次郎は利休に見出された陶工で、樂家の初代です。天正2年(1574)に信長の命で獅子の棟瓦を焼き、その後、天正13年には秀吉の聚楽第の装飾瓦を焼いたという記録があるようです。利休が指導した長次郎の茶碗は、厳しい印象がありました。井上靖が小説『本覚坊遺文』のなかで、利休が床に「死」という文字の軸をかけるという場面があったように思うのですが、それを読んだ時、それは行き過ぎのような感想を持ちました。しかし、厳しい姿の黒樂茶碗を見ていると、井上靖がそのように考えたことも理解できることだと思いました。

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 そして、明るくなった〈展示室2〉には、「二彩獅子像」ひとつがありました。見事なスタイリングで、腰を高く上げたポーズの獅子です。ところどころに赤樂茶碗のようなオレンジ色の部分が見えましたが、展示してある解説によれば、当代の樂吉左衛門氏らの調査で、一部には緑釉が使われ、釉下には白化粧が施されていることがわかったのだそうです。素地に白化粧をし、緑釉や透明釉を掛ける技法は中国南部の華南三彩という焼物と同じものだということで、朝鮮半島の人とも、中国の人とも言われている長次郎の背景が明らかになってきたのですね。

 私はこの獅子を見て、唐時代の焼物の獅子と似ているな、と感じました。「唐の女帝・則天武后とその時代展」(1998年~1999年)にも出陳されていましたが、長安(現在の西安)近くの墓から発見された三彩釉のものなど、ポーズはちがうものの、共通するものを感じました。もちろん、華南は西安よりずっと南の地方ですが、8世紀の頃に長安の都で生まれた獅子が中国の各地方に広まり、16世紀の日本に来た陶工の技にもそれが脈々と息づいていた、とは妄想しすぎでしょうか。

「二彩獅子像」はどこから見ても本当によいスタイルで、盛唐時代の仏像のようにウエストが細く、美しい形を持っていました。当代の樂吉左衛門氏も、先代の覚入も、彫刻科で学んだ方ですが、轆轤を使わず、箆で形づくりをしていく樂茶碗には、その最初から獅子像のような彫塑・彫刻の技がまずあったということは私にとって、新鮮な驚きでした。

 華南三彩が樂茶碗の母だとするならば、父方はどこに求めましょう。
私は、朝鮮半島の陶器ではないかと考えます。利休の弟子である山上宗二が遺した書物、『山上宗二記』には、「唐茶碗ハ捨リタル也。当世ハ高麗茶碗、今焼茶碗」(今焼=樂焼のこと)とあり、利休の考えが伺えます。また「一、井戸茶碗、此一種山上宗二見出名物ニ成、天下一ノ高麗茶碗ナリ」ともあって、井戸茶碗が高麗茶碗の最上のものとされているのですが、この茶碗は朝鮮の日用に使われる飯碗だったとも聞きます。

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 しかし、朝鮮の無駄のない、きりっとした形には現代の私たちでも心がひかれます。利休はこの形を生み出した民族を尊敬していたのではないでしょうか。そして、その民族を蹂躙しようとする秀吉を何と捉えていたのでしょうか。利休の賜死についてはさまざまな説がありますが、私には、この朝鮮に対する態度の違いもひとつの原因に思えます。

 黒樂茶碗のような真っ黒な陶器というものは、東アジアの他の地方でも日本の中でもあまり見たことがありません。利休は明るい自由な雰囲気の獅子を作れる長次郎という陶工に、善も悪も、すべてを手のなかに籠めてしまったような黒い茶碗を焼かせました。そこには、朝鮮から来る陶器の淋しいと感じられるほどの、すっくと立つような自立性も影響し、戦いに明け暮れ、さらにその朝鮮までをも戦乱に巻き込もうとする時代の背景があるように感じます。

利休が賜死の前、秀吉の聚楽第の外郭にあった屋敷内の茶会について、約半年にわたって記録をした『利休百会記』を見ると、それ以前の茶会に比べて、天目や青磁などの唐物茶碗が少なくなって、高麗茶碗が増えており、二畳の茶室なら黒樂、四畳半の茶室なら赤樂が多く使われています。そうして、天正19年正月13日、秀吉を迎えてのふたりの最後の茶会は、それまで「上様 御キライ候ホトニ」と使わなかった黒樂をあえて使っています。ここには、権力者にさえ譲らない利休の姿勢が見てとれます。利休はこの後、2月28日、切腹しました。

あの時代、茶道はただのお茶ではありませんでした。樂茶碗はそのような切羽詰った中で生まれたもののように思います。

(写真は、上から 「赤と黒の芸術 樂茶碗」展の図録。中左は長次郎作「ニ彩獅子像」―「赤と黒の芸術 樂茶碗」展の図録より。中右は唐時代の「三彩獅子」―「唐の女帝・則天武后とその時代展」図録より。下は井戸茶碗、銘「美濃」―田部美術館 「不昧とその周辺」展図録より。クリックすると大きくなります。)

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コメント

郁さん、お久しぶりです。

京都の茶道具店にも三井美術館のこの展覧会のポスターが飾られていて、赤と黒の茶碗がすっきりと写った構図がすばらしく、見る度にポスター泥棒をしたくなります(苦笑)。
長次郎の出自や利休の楽茶碗にこめた思いについての郁さんのご洞察に感銘を受けました。大変教えられることが多く、感謝の気持ちをお伝えしたくてコメントさせていただきました。時間ができたら、引用されている書物を是非読んでみたいと思います。

●あくあさん、こんにちは。
なんだか、過分なお言葉を頂戴して、どうしましょう、と思っています。
ありがとうございました。それにしても、考えさせてくれる展覧会でした。
ポスター、どこかで手に入るといいですね。

素晴らしい考察を読み、お勉強させて頂きました。ありがとうございます。
このようなブログもお持ちなんですね。お気に入りにいれて徐々に読ませて頂きます。
日本には美しいものがたくさんあって、まだまだ見たいもの、触れたいものあり過ぎて困ってしまいます。見損なってしまった美術展など、こちらで楽しみに拝見したいと思っております。

●m-tamagoさん、こんにちは。
お褒めいただき、恐縮です。昔から東西交渉史などに興味があるため、つい、いろいろな文化につながりがあるのではないかと妄想してしまいます。
日本には美しいものがたくさんある、ということ、
本当にそうですね。先人に感謝ですね。
先日、m-tamagoさんの所にもおじゃましたんですよ。
どうぞ、これからもよろしくお願いします。

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