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比叡山という母

Hounen

 今年は法然上人八百回忌・親鸞聖人七百五十回忌 ということで、東京国立博物館では、特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」が開催されました。すでに終了していますが、この展覧会で感じたことや、その後行った比叡山、そして、法然のために遺弟たちが行った知恩講に由来する寺、知恩院を訪れたことをまとめてみます。

 特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」では、我が国が独自の仏教宗派を生み出した平安末期から鎌倉に生きた二人の宗教者を取り上げて、その伝記絵巻や遺墨、あるいは阿弥陀信仰の来迎図、地獄・極楽図、あるいは仏像などが出陳されていました。なかでも印象的だったのは、日曜美術館でも最初に取り上げていましたが、「二河白道図」でした。向こう側には極楽がみえているのですが、手前には火の河と水の河があり、その真ん中を心細くなるような細い細い白い道があり、手前の現世からこの細い道を歩いて向こうへと辿り着かねばならない、という教えを絵に表したものだそうです。火は人の怒りを表し、水は家族の愛など執着を表していると聞きました。

 法然はもともと比叡山で修行するとても優秀な青年だったといいますが、貴族の子弟らが寺の中心になっていく延暦寺のなかで従来の教えや修行に疑問を持ち始め、いつしか黒谷というところで、正式な僧侶ではない者たちに交じって念仏修行にその信仰を移し、その念仏を専修することを広めたということです。

 今回の展覧会をきっかけに『法然対明恵 鎌倉仏教の対決』(町田宗鳳:著 講談社選書メチエ)を読み返してみました。美術に関連するエピソードの多い明恵上人、その明恵上人が『摧邪輪』(ざいじゃりん)という書をもって、尊敬しつつも批判した人物・法然のそれぞれの生涯を思い、日本の仏教について素人なりに少し考えてみました。親鸞の言動にまでなると、なかなか理解できないので、まずは、明恵と法然についてです。

 本を読んでいて思ったのは、二人とも親とは早くに別れてしまうのですが、その後の人との出会いという部分が違ったのではないか、ということです。明恵の方が温かい人間に囲まれていることが多く、明恵もそれに応え、時にはそれに甘えそうになる自分を戒めるかのように、自分に厳しい修行を課したり、遠く紀伊へ向かったりしているように思えました。


 この世は浄土へ行く通過点でしかないのだから、南無阿弥陀仏と唱えて絶望をやり過ごし、往生だけを願おうという法然は現世に未練をもたぬ、愛をもたぬ人だったのでしょうか。飢饉や疫病、災害、そして戦乱という凄惨な世の中や不平等な現実の前で、それでも目の前の人々を救うには、こうした方法しかないと考えたのでしょうか? 私には問題が大きすぎます。でも、この問題は現代の私にとっても、よく考えてみるべき問題のような気がします。自分の生き方を自らの力でコントロールしていこうとする明恵、妄念のない人間などいないのだから、阿弥陀にすがり、念仏だけを繰り返せばよい、という他力本願の法然、どちらの信仰が今の日本に暮らす人々の心に響くでしょうか。

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 展覧会の後、比叡山に初めて行ってみました。暗いうちに根本中堂に参り、僧侶の祈りを聴きました。東日本大震災の復興や原発問題の早期収束を声に出して祈っておいででした。こうしてみんなのために祈っていることを仕事にしている人がいることが不思議にも、またとてもありがたくも思えました。

 比叡の山の中を歩きながら、この山で修行した法然や親鸞、高尾や栂ノ尾といった京都の反対側の山からこの叡山をみていた明恵のことを思ってみました。叡山はとても広く、いろいろな僧侶や小僧や、学生や堂衆や、聖と言われる乞食僧など、いろいろな身分の者がいて、その信仰もさまざまにあったということです。この山を開いた、あの美しい眉を持つ最澄の絵像や柔和な顔の円仁の像を思い出しながら、日本の仏教の母体として、新しい宗派を生み出してきた叡山という場所の特別さを考えました。片や日本の都を見下ろし、片や大きな琵琶湖を見下ろす特殊な場所です。近代以前は大陸からの様々な情報が水上交通によってスピードをもって齎される土地でもあったのかもしれません。

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 信長の焼き討ちがあったせいもあって、比叡山の建物は新しく感じました。でも、その自然は長い歴史を語る力強さを持っています。建物のあっさりした感じは、京都の市内に降りて行ってみた知恩院の重厚さに比べると、少し軽くも思いました。しかし、そのようなモノに頼らない、人を育んでいる場の爽やかさがあるようにも思えました。1200年不滅と言われる法灯を絶やさぬ人がいることが宝なのです。最澄の遺した「一隅を照らす、これすなわち国宝なり」という言葉どおりです。

 ふもとの坂本にある滋賀院という門跡寺院では、延暦寺の根本中堂から分けていただいたという灯を間近で拝見させていただきました。信長によって打撃を受けた時も円仁が東北の山寺に分灯していた火を叡山に持ってきて法灯は守られたといいます。小さな火ではありましたが、そういう火を観ていると思うと、心が熱くなる思いがしました。

 人もまた、叡山を下り、都に出、関東へと移り、信仰の形も変わりました。それでも、流れを絶たずにつなげていくということでは法灯のようにずっと続いているものです。そのように、私も何かを引き継ぎ、誰かに伝えていくように生きなくては、と少し真面目に考えました。

  
(写真は上から、特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」のちらし、最澄の表紙の図録、円仁像です)

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