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2016年9月 1日 (木)

丹後に宿る幾重もの多様な交流

Tango

 

京都博物館で、「丹後の仏教美術」という特集陳列を見ました。ちょうど土曜講座のあった日で、長年、京丹後市役所にお勤めの小山元孝さんのお話も伺えました。

 

丹後、と聞いても東京生まれの私はピンとくるものはなく、丹後ちりめん位しか頭に思い浮かばず、日本海に近い京都のこの地域には行ったこともなく、基本的なことから教えていただくようなことでした。しかし、展示の仏像を見るとなんと神護寺の薬師如来によく似た金剛心院の如立像があり、叡山横川の恵心僧都源信(9421017)が造立した美しい截金と着彩の地蔵菩薩の摸刻像がありました。

 

博物館のミュージアムショップで売られていた過去の丹後にまつわる展観の図録を買い、読んでみると、丹後という土地は弥生時代からすでに朝鮮半島や中国大陸との交流があり、先進文化の取り入れ口として、よい港を持ち、畿内と河川を使って上手に連絡をしていた所でした。

 

ここには麻呂子親王の鬼退治伝説というものがあり、展覧会でもそのいくつかのバージョンの絵巻がでていましたし、図録類にもたくさんの鬼退治の物語の絵図が載っていました。麻呂子親王というのは当麻皇子(たいまのみこ)とも言われ、聖徳太子の異母弟なのですが、当麻寺を創建したとされる人物でもあります。鬼退治では大江山が有名ですが、場所も近く、こうした伝説がどのように広がっていったのか、興味のあるところではあります。

 

また、聖徳太子の2歳の時の姿という「南無聖徳太子像」という鎌倉時代の像が宮津市の成相寺にあるそうです。聖徳太子信仰は10世紀のころから高まりをみせると言われていますが、同じような像がこの春訪れた広島の尾道の浄土寺にもありました。この浄土寺も聖徳太子創建と伝えられている寺で、ここから四国へ渡った先には聖徳太子が荘園を持っていたといいますし、また四国で勢力を持っていた長曾我部氏の先祖は新羅から来た秦氏であり、秦河勝は聖徳太子の教育者でありました。

 

飛鳥時代の聖徳太子から直接につながっているのではないかもしれませんが、どこかでそれを思い出して伝説を作っていった人々がいた、ということが面白いことに思えます。それが、広島の尾道にも丹後の宮津にも遺っているのです。鬼退治もおそらくは地元勢力を征圧した話が鬼という表現になったのではないかと思われますが、その鬼の名前も「えい古」「土車」「軽足」と伝えられています。「土車」は「つちくま」になり、「土蜘蛛」になるのでしょうか? 話は発展し、尾ひれがついて私たちのところに届きます。色鮮やかな鬼退治の絵巻を見ていると、これを見ていた人々のワクワク感が伝わってきます。本当に起こったことではなく、人々が見たかったもの、また権力ある者が見せたかったものが描かれているのでしょう。

 

京丹後市の本願寺の「仏涅槃図」にはモンゴル風の姿の人物が描かれており、元代のものを写した可能性があるといいますし、南北朝時代の蔵王権現の懸け仏もあります。丹後には各時代、いろいろな地域との交流があり、その重なりは多層で、そう簡単には読み解けないほど濃密な感じがしました。

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