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2016年11月 3日 (木)

明治の気概をみた碌山美術館

Rokuzan_museum_2

 

10月の連休に長野安曇野にある碌山美術館に行きました。晴れていればアルプスの連なりが見えるはずの景色も、残念ながら降ったり止んだりの空模様で半ば程までしか見えませんでした。それでも、霧に包まれる山裾の景色さえ、都会から行った者には新鮮で、ほっとするものです。

 

松本から通学の学生さんたちに混じりJR大糸線に乗って20分くらい、穂高駅はいかにもアルプスに近い場所の建物という風情でした。駅前には碌山美術館の案内もあり、観光スポットとして有名な所のようです。

 

学生の頃、スキーに行く折などに線路の傍に建つ洋風の鐘楼を教会と勘違いして、こんなチャペルで結婚式をしたい、などと夢みていたことが思い出され、我ながら可愛い若者であったと笑ってしまいます。それから数十年、社会人になった息子と訪れることになりました。

  現在の碌山美術館は、おそらくその頃よりさらに整備され、建物なども増えているのではないかと思いますが、教会と間違えた蔦の絡まる建物、ミュージアムショップとなっているグズベリーハウスなど、木立ちの中の建物の雰囲気はとても素敵です。

 

 碌山こと荻原守衛は明治の彫刻家です。この地の出身で、周囲にはキリスト教信者のグループもあり、東京に学んだり、仕事を持ったりという先輩たちもいたそうで、そうした中で一枚の油絵を見たことをきっかけに、美術を志したということです。東京に出て明治女学校で仮住まいしながら美術を学び、そのうちにアメリカに留学。ニューヨークで富豪のフェアチャイルド家で働きながら美術学校に通い、さらには勉強のために行ったパリでオーギュスト・ロダンに出会い、自らも彫刻へと進み、エジプトやローマへも美術の勉強のために旅行しました。

 

 展示にはこうした荻原守衛の人生を追う手紙や写真があり、彼の読んだ本を納めた本棚がありました。明治12年生まれの青年が物凄い勢いで変革していく日本の中で、地方から中央へ出て学び、さらに目指すもののために海外へわたったようすが細かにわかりました。今のように情報や資料のない中、次々と新しいものを目指して飛び込んで行った守衛という人のまっすぐな気持ちに、便利な世に住む我々は脱帽するしかありません。

 

 彫刻作品は有名な「女」の他、数点がありました。中で目を見張ったのは「文覚」。以前、弟子にあたる明恵上人に関わる本で読んだような記憶があるのですが、時の政治家が怖れをなしていたといわれる程の豪傑さで知られる平安―鎌倉の頃の僧です。人妻を愛してしまい、夫を殺そうとして誤って愛するその人を殺したという話が伝わる人物です。しかも、碌山がこの人物を作った動機は、彼もまた同じように先輩の妻に恋していたから、というのです。アメリカやヨーロッパでの写真の中の碌山は優しい顔で、虚空を睨み付ける「文覚」とは全く違う印象です。にも拘わらず、この激しい憤りを表した文覚上人と同様の苦しい心を内に持っていたとは。

 

 解説を読むと「デスペア」「女」は碌山の愛した相馬黒光の絶望や悲しみを表した、とありました。黒光もまた、夫の裏切りに悩んでいたのです。苦しむ女性を救えない自分と向き合い、それを作品にした碌山の葛藤を知ると余計に作品に惹かれます。碌山美術館は明治の青年の気概を感じ、またその人生の苦さにも触れて、小さいながら重みのある美術館でした。

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