2018年2月22日 (木)

古い仏教とスパイスの交易の島スリランカ

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 昨年の夏には家族でスリランカに行きました。まずはコロンボに一泊し、次の日、キャンディ経由でダンブッラへ行きました。

 

 

 

 首都コロンボの街の喧騒を抜けると、ところどころで赤いランブータンを露店で売っている人たちがいます。また、途中には、カシューナッツが特産という村があり、生のものと、ローストしたカシューナッツを大きな袋で売っていました。値段は言い値で買うと案外高い観光客用の値段のようでした。

 

 

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スリランカでは大きな交差点にには必ずと言っていいほど、金色の仏様が祀られており、事故など起きないよう、人々を見守っているようでした。スリランカは古くから仏教の国なのです。街の仏像は大概座像で、とても大きく、交差点のどこからでも仏様を見られるようにガラスの廟の中に安置されており、タイ同様、暮らしのうちに信仰が行われている感じがしました。

 

 

 

 面白いと思ったのは中古車の販売会社で、あらゆる部品をバラバラにして、部品ごとに売っているらしいお店です。キャンディへ向かう途中にはイギリスがこの国に強い影響を与えていた時代に作られた紅茶工場がありましたが、その工場では百数十年前の年号の入った機械が今でも使われていました。あとで知ったことですが、この国の人々のリペア技術は素晴らしいものがあり、部品を取り換え、取り換え日本では考えられないほど長く機器類を使っていくようです。街道沿いの小屋のような所に、日本企業の銘板が入った、昭和の香りぷんぷんの大型機械が置かれていたのにも遭遇しました。

 

 

 

途中にはスパイスの農園があり、大雨の中、スリランカ伝統医学の医師でもある農園の主の説明を受け、少しのスパイスをお土産に買いました。説明を受けてみると、街道沿いもスパイスやナッツの樹が多く、おそらくは家の庭に植えてある樹々が食事作りの材料になってしまうのだろう、と思われました。さほどの手間をかけずにこうした香料や木の実が手に入るスリランカという島について、紀元前300年頃のギリシア人たちもすでにその存在を知っており、紀元後20年にはローマ人たちがここを訪れ交易をしたといわれています。776年に編輯されたというベネディクト派の僧が作った世界地図には赤い河に浮かぶ黄色い島としてセイロンが描かれており、重要な交易相手であったことが伺われます。庭先に自然と高価な交易品が実ってしまうこの国は、本当に羨ましい国として知れ渡ったのでしょうね。

 

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 キャンディは湖のある、しっとりとした雰囲気の街でした。ここでは湖畔の仏歯寺(ダラダーマーリガーワ寺院)に参りました。多くの象たちが飾りをつけて繰り出す毎夏のペラヘラ祭りが有名です。寺院の外で皿に盛った生花を買い、寺院に持って入ります。私たち親子はいつの間にかついて来てしまった青年の説明を聞きながら中を見学いたしました。(見終わった時にガイド代を請求してきます。)スリランカではどこでもそうですが、寺院では靴を脱ぎ、裸足で歩かなくてはなりません。外のコンクリートの小道や砂利の通路を歩くのは、慣れていない私たちには少し辛いものがありました。それでも1603年創建という寺院の建物は美しく彩色された木造のもので、日本の江戸時代の東照宮の煌びやかなさまと同様、同じ頃にこのようにスリランカでも多色の美しい建築物が建てられていたのだな、と思いました。堂内は今なお祈りに来る多くの人でいっぱいでした。私たちも白や紫の睡蓮や蓮の花を、仏歯の祀られている前の献花台にお供えしてきました。紫の睡蓮は国の花なのだ、と運転士さんが教えてくれました。

 

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 キャンディからはさらに高地となるダンブッラへ向かいました。広い広い蓮池も見かけましたが、蓮の実もまた交易品だったのでしょうか。 最近、テレビで見て驚いたことに、古代のアフリカでもこの蓮は特別な植物とされていて、人が蓮の花から再生するという絵が残っているということを聞きました。だとすると、「蓮」という植物を神聖なものとするのはアフリカから、日本まで、非常に広い地域ということになります。中国でも韓国でもベトナム、タイ、マレー半島、スリランカ、インドネシアで「蓮」は神仏を荘厳し、衣服にデザインされ、また建物の装飾として使われているのを見てきました。そこにさらにアフリカが加わるとなると、「蓮」のイメージを共有する地域はとても広いものだと考えられます。東アフリカとスリランカは古くから航海ルートでつながっていたことを示す証かもしれませんね。

 

 

 

世界遺産シギリヤロックの壁画美女たち

 

 スリランカ3日目は世界遺産のシギリヤ・ロックに登りました。5世紀、カーシャパ王子(477495 A.D.)はアヌラーダプラにいた父王を殺し、弟モッガラーナ王子らから逃げるために、シギリヤに居城を造ったと伝えられています。緑の大地に突然大きな四角い岩山が突き出ているような景観に、とても不思議な感じを受けました。岩山の麓には美しい濠や池、美女たちを遊ばせたというプールが整備されています。先史時代から人が住み、紀元前の村の遺跡もあるというこの地域は5世紀の時点でもすでに僧院などのある場所でした。美しい水の庭は今でも静かで、落ち着いた雰囲気を持ち、小さな猿たちの遊ぶすてきな所です。

 

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岩に向かって真っすぐの道を歩くと、そのうちに階段が始まり、頂上までの高さ約200メートルというほとんど垂直のような岩山に取り掛かり、高度を上げていきました。巨石のゲートにはさまざまの名前がつけられていました。半ばくらいのところには有名なシギリヤ・レディと呼ばれる美女たちの壁画があります。豊かな胸と細いウエストの女性たちの絵が残っているのです。菩薩たちのような髪飾りや胸飾りをつけ、腕にも手首と二の腕の両方に飾りをつけ、大きな輪っかの耳飾りをしています。彼女たちは、世界の各地から集められた王宮の美女たちとも、インド神話に出てくる水の精とも言われているようです。水の精アプサラスは王や英雄の凱旋を寿ぎ、花を散らすという妖精たちです。この壁画の描かれている部分は140メートルにも及んでいた、という説もあり、500人の美女の絵があったといいます。今は18人の姿が見えるだけですが、それぞれに蓮の長い茎を持ったり、花かごをもったり、小さな花をつまんでいたりして優雅な空気を醸し出しています。城への道の途中にある「鏡の壁」と言われる部分には6世紀から⒕世紀にわたる落書きが残されているのですが、その大半はこのシギリヤ・レディを称えるような詩であるということです。

 

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壁画はこのシギリヤ・レディの部分だけでなく、麓に近いところの岩のへこみ部分にも残っていました。天然のデッキのような岩棚に美しい模様のフレスコ画を描いて、王様の庭にふさわしい優雅な空間を作っていたのでしょうか。今でも私たちは縁側やベランダのような半分外のような空間で風にあたっているとき、一番リラックスできるような気がしますが、シギリヤの王宮でも、そうした場所が作られていたのかもしれません。

 

 

 

さて、壁画の後にはさらなる登りがあります。オーバーハングの大きな岩を見ながら行くと、眼下には緑の森林が広がっていき、そのうちにライオンの脚だけが残るゲートに着きます。当初はライオンの口から入っていくような門になっていたそうですが、今は大きな爪のある足先があるだけです。ここからは階段で頂上まで一気に上ります。頂上からは湖も見えて、王宮のさまざまな施設の跡が見て回れました。父王の殺害という重い事実を抱きながらカーシャパ王はここで15年を過ごしたということです。天空の城のようではあるものの、そこから降りられないという状況の中、王はどのような気持ちで広がる緑の森を眺めたのでしょう?

 

 

 

ダンブッラの石窟寺院

 

 今回、私たちはダンブッラという街のバワ(Geoffrey Bawa 英国で学んだコロンボ出身の建築家。今でもスリランカには彼の建てたリゾートホテルなどがあります)の建てたヘリタンス・カンダラマに宿をとったのですが、この近くにも石窟寺院があり、見学に行きました。この辺りの石窟には先史時代から人が住んでいて、紀元前1000年ころには巨石を使った墓地なども作られていたようです。現在残っているのは18世紀から19世紀に壁画の描かれた寺院で、多くの仏像が祀られています。壁画の仏は力強く、明るい顔で、頭の上に焔をつけたような像がほとんどです。スリランカの仏像はタイの仏像に似ていますが、もっと肩幅が広く、明らかに男性の姿をしています。大小いろいろな大きさの立像や座像があり、中にはストゥ―パを守るように周囲で座禅を組む像もありました。壁画は大日如来を囲む千仏、初転法輪の場面、スリランカに初めて仏教が伝えられた場面、マーラ神の軍を表す武具をつけた怪物の群衆の絵などがありました。

 

 

 

 壁画は全体として赤い色が多く使われており、日本の寺院とはまた異なる独特の温かさが感じられるものでした。シギリヤ・ロックの麓の売店で買った“The Cultural Triangle(UNESCO Publishing・CCF 1993)という本によると、ここの壁画に描かれているのは仏陀の降誕やマーラ神の娘の誘惑という仏伝の他、スリランカの仏教の歴史を描くものもあるということです。

 

 

 

仏像に混じって王様の像もありました。ここダンブッラ石窟には12世紀の終わりごろに、ニッサンカマーラ王が訪れ、寺院を置き、大日如来の大きな絵を描かせたそうですが、17世紀から18世紀にかけて、再びキャンディの王たちの信仰の場として、この石窟寺院が整備され、キャンディの絵師たちによる壁画制作や修復が行われました。同時代の日本でいえば徳川家にとっての寛永寺か知恩院のようなところなのかもしれません。仏教がそれぞれの国で受け入れられて、異なる宗教藝術を遺していることは本当に面白く感じます。ただし、この石窟の天井画や壁画は19世紀、20世紀にもたびたび修復が重ねられているようで、9世紀頃から寺院が造られたとはいうものの必ずしも古いものばかりということではないようです。しかし、それは人々の信仰が何代にもわたって続いているということの証とも言えますね。

 

 

 

アヌラーダプラの大きなストゥーパ

 

 シギリヤとダンブッラの石窟寺院を尋ねたあくる日には、アヌラーダプラの遺跡を見学に行きました。ここには紀元前からの寺院や遺跡があり、40平方キロメートルという広い範囲に5つの大寺院、大ストゥーパ、仏像、博物館、それに釈迦がその下で瞑想をした菩提樹から株分けをしてスリランカにもたらされたとう伝説を持つ菩提樹などが点在しています。

 

まず最初に北の僧院アバヤギリという所に参りました。ほとんど人影の見えない朝の遺跡群の中、青い空の下で、大きな赤い煉瓦建てのまあるいストゥーパの向こうから湧き上がって来る白い雲を見るのはなかなか感動的でした。アバヤギリ・ヴィハーラとは、仏教者の共同体であるサンガを意味していて、紀元前2世紀に創始され、紀元前1世紀には各国からの修行者を集める研究の場となっていたと考えられています。紀元前89年から77年にこの地を治めていたバッタガマーニー王は南インドからのタミル勢力に押されていましたが、それを撃退し、宗教的なシンボル、かつ自国の復活のシンボルとしてこのアバヤギリを建てたということです。スリランカというとすぐに小乗仏教の国、という人がいますが、このアバヤギリは大乗仏教の大本山として、人々の信仰を集めてきたそうです。2000年以上の仏教の歴史の中では、さまざまな仏教集団が生まれ、盛衰があったようです。

 

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中国の僧、法顕は412年にこのアバヤギリを訪れており、ここで仏法の研究をして2年間を過ごしました。その後も7世紀まで、中国、ジャワ、カシミールとの交流を続けながら、アバヤギリは仏教研究と仏教教育の地として発展しました。アバヤギリ大塔近くの白い建物の博物館には、この地が古代から中近東や地中海の国々・アジアの国々と国際的な交流をしていたという証拠として、コインや装飾品・金属の道具類が集められていました。遺跡群の木立ちの間に立つこの白い建物はイギリス統治時代の1937年に建てられ、当時は議会の建物であったことが解説のプレートに書かれていました。

 

 

 

博物館はもうひとつあり、赤い大きな二重屋根のものがありました。こちらには入口正面に白い仏座像があり、南国の大きな葉をつけた樹木の茂る庭の小道を行くと、奥に白い仏様が待っていてくださるようなところです。寺院の建築に使われていた石彫や供養者の名を彫り込んだ石などもありました。もうひとつ、地図に民族博物館と書かれた所にも行ってみました。ここは、簡単な屋根だけの建物に石碑を集めてある場所でした。丸い文字はシンハラ語の文字でしょうか? 解説のプレートがついているものには、大抵、供養者の名前と先祖の後生を頼む文言があるように書いてありました。中国でも韓国でも、日本でも仏像の台座に、造像を依頼した人の名があり、父母の為に、とあることと同じだなぁ、と思いながら見て回りました。

 

 

 

首都コロンボの国立博物館

 

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ダンブッラから再びコロンボへ戻って来た翌日は国立博物館に参りました。白い西洋風のお城のような建物の入り口では堂々とした体躯の仏座像が置かれていました。美しい仏像です。博物館では入場料の他、カメラで写真を撮ってよい、というチケットやビデオを撮ってよいというチケットを別に売っていました。アヌラーダプラの博物館では撮影禁止であったので、料金を課されるといっても、カメラがOKなのは助かります。

 

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仏教の盛んなこの国らしく、仏像や仏教に関する資料が多く展示されていますが、その他にも、ヒンズー教の神像、各地の遺跡から出土した宝飾品、器、外科の処置に使われた鋏やメスのような道具、薬を砕いた石製のグラインダー、お寺の入り口にあるムーンストーンという半円形の石彫や菩薩の姿をしたガードストーンの石、各地の彩色土器や布、剣、交易で入ってきた陶器、権力者の調度品、細やかな細工の象牙製品、横長のカード集のような経典、アラビア語で書かれた石碑、ポルトガル語やオランダ語で書かれた建物の石のスラブ、大きな東インド会社のマーク入りの壁石、各地の壁画の模写の中にはダンブッラの石窟で見た絵もありました。

 

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遺跡からの発掘物にはパネルで丁寧な遺跡紹介の解説がつけられており、ここが冷房のきいている博物館であったなら、いくらでも時間をかけて見学したいところでした。暑さに負けて、速足で回ってしまいましたが、つるりとした彩色土器はなんとも言えない味わいがあって、じっくり見ていたい思いにかられました。面白いことに、スリランカの農村で出会った婦人はやはり同じ形の壺をかかえて歩いていました。素材はアルミニウムのようでしたが、形は昔ながらのぽってりとした胴に細い首をつけたものでした。何か、民族の血が受け継がれているのを見た気がしました。

 

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スリランカの博物館では英語で書かれ、写真もついているというような図録はあまりなく、残念に思いましたが、それでもアバヤギリでは唯一残っていた “The Art and Archaeology of Sri Lanka” という本を買い、国立博物館では ”Traditional Textiles in the Colombo National Museum” そしてシギリヤでは “The Cultural Triangle” という図録が手に入りました。旅で忙しく見て回ったものが、いったいどういうものであったのか、本を読んで振り返るのもまた楽しいものです。それでも、機会があったら、またスリランカに行ってみたいと思っています。

 

 

 

2017年4月29日 (土)

自由な発想と国際的感覚の茶の湯

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東京国立博物館で、茶の湯展が開催されています。連休前の爽やかな風の中、和服の女性も多く、上野は桜の季節を過ぎても賑やかな雰囲気です。

 

 

 

さて、展覧会の展示品リストを見ると最初は「南宋時代」の器物がずらりと並び、次第に「室町時代」のものが入り、「朝鮮時代」の井戸茶碗がきて、その後侘茶の時期になってようやく「安土桃山時代」の掛物や陶器などが書かれています。

 

 

 

現代の私たちにとって、日本そのもの、と感じられる茶の湯もその源は中国から始まり、私たちは器物を買い求め、それを真似し、そのうちに自分たち独自のセンスや工夫を加えて今のかたちに仕上げてきました。

 

 

 

中国の宮廷にあるような肌のつるりとした青磁と、朝鮮の庶民が使うざらりとした井戸茶碗と、瓦を焼く職人であった長次郎に焼かせた真っ黒の楽茶碗がひとつの部屋に集められ、南宋の水墨画が掛けられたあとには、身近にある竹を切っただけの花入れに花が挿されて床の間を飾ります。何という自由な世界でしょう。器物は中国や朝鮮のものであっても、この発想は日本が作りだしたものです。面白いですね。

 

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中国で薬を入れていた小さな壺には象牙の蓋をかぶせて、豪華な錦の袋を着せて茶入にしましたし、さまざまな道具を包む布にはインドやインドネシアで染められた更紗が使われました。タイで嗜好品として好まれたビンロウの実を入れる漆の筐は「蒟醬」(きんま)と呼ばれ、茶箱になりました。ベトナムの素朴な壺はその縄目模様から「南蛮縄簾」と呼ばれて、水指になりました。今のフィリピンからは大小の壺がきて、呂宋(るそん)の壺と呼ばれ、葉茶が詰められて大名のように行列しました。茶室は東南アジアからもたらされた豊かな文化が入り混じって、異国情緒たっぷりの空間です。とても国際的なのに、私たちはその組み合わせを「日本的」と感じます。不思議ですね。

 

 

 

こうしたことを考えると、日本人は本当に頭の柔らかい、しなやかな感性を持つ人が多いのかもしれない、と思えます。この柔らかさで、世界のいろいろなすてきなものを発見して、それを組み合わせることで新たな宇宙を創り出す、そんな伝統、これからも守っていきたいですね。

(写真は同展のちらし)

 

2017年3月 2日 (木)

民藝とポップアートの全体

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 昨年、仕事で大阪に行ったついでに万博公園の中にある大阪日本民芸館に寄りました。千里の万博会場は私たちの年代にとっては昔見た夢の塊のような場所で、今も残されている岡本太郎の「太陽の塔」がとても懐かしい想いを呼び起こします。「太陽の塔」の裏の顔は黒く、怖ろしい形相に作られていたのか、と改めて認識しながらも、美しく紅葉した樹木を楽しみつつ、歩きました。

 

 

 東京渋谷の日本民芸館を訪れたことはありましたが、大阪の民芸館は初めてです。どちらの建物も何か共通するものがあり、どっしりした、風通しのよいような、広々した感じを受けました。

 

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 行われていたのは「秋季特別展 河井寛次郎」で、民芸運動の最初期から関わっていた河井寛次郎の作品がたくさん陳列されていました。

 

 たくさんの作品の中には、よく知られている作風の「これぞ民藝の焼き物」と思わずにやりとしてしまうものと、「河井寛次郎はこのような作品も作っていたのか!」と目を見張るようなものがありました。会場で流されていたビデオでは、むしろこの後者にあたるような作品を喜々として作っている寛次郎が紹介されていました。その造形はあの岡本太郎さんにも通じるような意外な形、常識を裏切るようなものでした。

 

 

 

 「民藝」運動を始めた人がこのような作品を作っていたというのはどのように考えたらよいでしょうか。やはり人は社会と深くつながって人のために働く部分と内から湧き出てくる個性の部分がある、ということなのかもしれません。一人の人間の中に保守の部分と革新のほとばしりがある、ということなのか、年齢を重ねるうちに色々な面が出てくるということなのか、とさまざまに考えました。いずれにしても、全体でその人です。

 

 

 

この大阪日本民芸館では、この他にも常設展示として濱田庄司、宗像志功、芹沢銈介らの作品に出会えました。お土産には主人の故郷で焼かれた箸置きを買いました。日本民芸協会のサイトをみると、民芸館は日本全国にあります。各地の民芸館に行きたくなりました。ちなみに、大阪日本民芸館では34日から春季特別展「菓子木型の世界-美をかたどる-」という展示会が行われるようです。

(写真は同展ちらし。おもて面の作品は民藝とアートの融合したようなものにみえます)

 

金春家の能面の奥深さ

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先週の土曜日、上野でほんの40分ほどの時間があいて、東京国立博物館に立ち寄りました。すでに平成館は入場できず、常設展示のみです、と言われながら入りましたが、この夕方の時間帯でも来日した海外からのお客さま達がどんどん博物館へと入っていくのでした。

 

短い時間で楽しむには、と探すと、「金春家伝来の能面・能装束」という展示をしており、2つの部屋をみるだけなら、ちょうどいいので、これを見学に行きました。

 

金春家というのは奈良にゆかりの深い能の家で、現在もシテ方としてその伝統が引き継がれています。秀吉の弟、秀長の贔屓を受けたことをきっかけに、太閤秀吉の庇護も受け、金春大夫安照は朝鮮出兵のために出向いた佐賀の名護屋城で太閤に能を教えたり、家康の駿府城に招かれたりしていたといいます。

 

この展示は主に諦楽舎が守ってきた能面や能装束が奈良帝室博物館に入り、その後東京国立博物館に保管されることとなったものだという説明がありました。この諦楽舎というのは、奈良在住の実業家らが集まって作った団体です。明治期、経済的に苦境に立った金春家が能装束などを売りに出したため、これを春日大社が購入、さらにこれを引き取って守ったのが諦楽舎だったのです。つまり、この金春能の展示は、平成館で行われている春日大社の展覧会に合わせて開催されているのです。春日大社や興福寺専属の猿楽師から発展した能の家の宝が並んでいたのです。

 

能面に限らず、面というものはどこか怖ろしい何かを持っているように感じるのですが、いくらか能を観るようになってからは、この怖ろしさに少し慣れてきました。能が演じられる時に感じる妙なリアル感は間違いなくこの能面によるところが大きいのです。人のように動きながら、どこかあの世のものと思わせ、笑顔の中に悲しみが隠れていたり、疲労の中に凄味が隠れていたりします。

 

あまり舞台では見たことのない「大天神」という面もありました。先月平成館で見た春日大社の春日明神の絵姿も同じような顔に描かれていたように思いました。悪さをした子供を上から怒鳴りつける校長先生のようにも見えます。威嚇の顔のようにも、人間の所業を少し悲しんでいるようにも見えます。

 

白いつるんとした女の面をみた後で、最後に般若の面を見ました。河内の面の解説に般若坊作の写しをした面が「哀しみの表現において本面の充実度には及ばない」という浅見龍介氏の言葉がありましたが、確かに般若の面には深い深い女の哀しみがあるのだな、と改めて感じました。自身でも止められない激しい気持ちは哀れであるのに、そのように追い込んだものを怨みつつも愛して狂ってしまう人の造形として、日本人は随分と残酷なものを作ったものだ、とため息が出ました。

(写真は同展図録)

2016年11月 3日 (木)

明治の気概をみた碌山美術館

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10月の連休に長野安曇野にある碌山美術館に行きました。晴れていればアルプスの連なりが見えるはずの景色も、残念ながら降ったり止んだりの空模様で半ば程までしか見えませんでした。それでも、霧に包まれる山裾の景色さえ、都会から行った者には新鮮で、ほっとするものです。

 

松本から通学の学生さんたちに混じりJR大糸線に乗って20分くらい、穂高駅はいかにもアルプスに近い場所の建物という風情でした。駅前には碌山美術館の案内もあり、観光スポットとして有名な所のようです。

 

学生の頃、スキーに行く折などに線路の傍に建つ洋風の鐘楼を教会と勘違いして、こんなチャペルで結婚式をしたい、などと夢みていたことが思い出され、我ながら可愛い若者であったと笑ってしまいます。それから数十年、社会人になった息子と訪れることになりました。

  現在の碌山美術館は、おそらくその頃よりさらに整備され、建物なども増えているのではないかと思いますが、教会と間違えた蔦の絡まる建物、ミュージアムショップとなっているグズベリーハウスなど、木立ちの中の建物の雰囲気はとても素敵です。

 

 碌山こと荻原守衛は明治の彫刻家です。この地の出身で、周囲にはキリスト教信者のグループもあり、東京に学んだり、仕事を持ったりという先輩たちもいたそうで、そうした中で一枚の油絵を見たことをきっかけに、美術を志したということです。東京に出て明治女学校で仮住まいしながら美術を学び、そのうちにアメリカに留学。ニューヨークで富豪のフェアチャイルド家で働きながら美術学校に通い、さらには勉強のために行ったパリでオーギュスト・ロダンに出会い、自らも彫刻へと進み、エジプトやローマへも美術の勉強のために旅行しました。

 

 展示にはこうした荻原守衛の人生を追う手紙や写真があり、彼の読んだ本を納めた本棚がありました。明治12年生まれの青年が物凄い勢いで変革していく日本の中で、地方から中央へ出て学び、さらに目指すもののために海外へわたったようすが細かにわかりました。今のように情報や資料のない中、次々と新しいものを目指して飛び込んで行った守衛という人のまっすぐな気持ちに、便利な世に住む我々は脱帽するしかありません。

 

 彫刻作品は有名な「女」の他、数点がありました。中で目を見張ったのは「文覚」。以前、弟子にあたる明恵上人に関わる本で読んだような記憶があるのですが、時の政治家が怖れをなしていたといわれる程の豪傑さで知られる平安―鎌倉の頃の僧です。人妻を愛してしまい、夫を殺そうとして誤って愛するその人を殺したという話が伝わる人物です。しかも、碌山がこの人物を作った動機は、彼もまた同じように先輩の妻に恋していたから、というのです。アメリカやヨーロッパでの写真の中の碌山は優しい顔で、虚空を睨み付ける「文覚」とは全く違う印象です。にも拘わらず、この激しい憤りを表した文覚上人と同様の苦しい心を内に持っていたとは。

 

 解説を読むと「デスペア」「女」は碌山の愛した相馬黒光の絶望や悲しみを表した、とありました。黒光もまた、夫の裏切りに悩んでいたのです。苦しむ女性を救えない自分と向き合い、それを作品にした碌山の葛藤を知ると余計に作品に惹かれます。碌山美術館は明治の青年の気概を感じ、またその人生の苦さにも触れて、小さいながら重みのある美術館でした。

2016年9月 1日 (木)

丹後に宿る幾重もの多様な交流

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京都博物館で、「丹後の仏教美術」という特集陳列を見ました。ちょうど土曜講座のあった日で、長年、京丹後市役所にお勤めの小山元孝さんのお話も伺えました。

 

丹後、と聞いても東京生まれの私はピンとくるものはなく、丹後ちりめん位しか頭に思い浮かばず、日本海に近い京都のこの地域には行ったこともなく、基本的なことから教えていただくようなことでした。しかし、展示の仏像を見るとなんと神護寺の薬師如来によく似た金剛心院の如立像があり、叡山横川の恵心僧都源信(9421017)が造立した美しい截金と着彩の地蔵菩薩の摸刻像がありました。

 

博物館のミュージアムショップで売られていた過去の丹後にまつわる展観の図録を買い、読んでみると、丹後という土地は弥生時代からすでに朝鮮半島や中国大陸との交流があり、先進文化の取り入れ口として、よい港を持ち、畿内と河川を使って上手に連絡をしていた所でした。

 

ここには麻呂子親王の鬼退治伝説というものがあり、展覧会でもそのいくつかのバージョンの絵巻がでていましたし、図録類にもたくさんの鬼退治の物語の絵図が載っていました。麻呂子親王というのは当麻皇子(たいまのみこ)とも言われ、聖徳太子の異母弟なのですが、当麻寺を創建したとされる人物でもあります。鬼退治では大江山が有名ですが、場所も近く、こうした伝説がどのように広がっていったのか、興味のあるところではあります。

 

また、聖徳太子の2歳の時の姿という「南無聖徳太子像」という鎌倉時代の像が宮津市の成相寺にあるそうです。聖徳太子信仰は10世紀のころから高まりをみせると言われていますが、同じような像がこの春訪れた広島の尾道の浄土寺にもありました。この浄土寺も聖徳太子創建と伝えられている寺で、ここから四国へ渡った先には聖徳太子が荘園を持っていたといいますし、また四国で勢力を持っていた長曾我部氏の先祖は新羅から来た秦氏であり、秦河勝は聖徳太子の教育者でありました。

 

飛鳥時代の聖徳太子から直接につながっているのではないかもしれませんが、どこかでそれを思い出して伝説を作っていった人々がいた、ということが面白いことに思えます。それが、広島の尾道にも丹後の宮津にも遺っているのです。鬼退治もおそらくは地元勢力を征圧した話が鬼という表現になったのではないかと思われますが、その鬼の名前も「えい古」「土車」「軽足」と伝えられています。「土車」は「つちくま」になり、「土蜘蛛」になるのでしょうか? 話は発展し、尾ひれがついて私たちのところに届きます。色鮮やかな鬼退治の絵巻を見ていると、これを見ていた人々のワクワク感が伝わってきます。本当に起こったことではなく、人々が見たかったもの、また権力ある者が見せたかったものが描かれているのでしょう。

 

京丹後市の本願寺の「仏涅槃図」にはモンゴル風の姿の人物が描かれており、元代のものを写した可能性があるといいますし、南北朝時代の蔵王権現の懸け仏もあります。丹後には各時代、いろいろな地域との交流があり、その重なりは多層で、そう簡単には読み解けないほど濃密な感じがしました。

2016年8月27日 (土)

バリ島のヒンズー寺院,タマン・アユン

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 もう2カ月近く前になりますが、バリ島のウブドに参りました。ジャカルタから東へ飛行機で約2時間。同じ国のなかでも時差のあるバリ島です。デンパサールでは空港建物への入り口にもヒンズー教の寺院のような門がありました。

 

 空港からは海の上を走るかのようなハイウェイで市内に入り、その後街なかを北上します。ウブドへは車で1時間半くらい。途中には石彫が並ぶ店や人が入れるほどの大きな甕を並べる所、バティックや銀細工の看板も見えます。デンパサールからウブドへの道はクラフト街道と呼ばれる道があり、工芸品を製作する村々をつないでいるようです。

 

 ウブドに着いた夜は王宮で行われるバリ舞踊を見ました。美しい女性たちが並んで踊る宮廷の舞踊もありましたが、若い男性がひとり登場して神がかった仕草で辺りを圧倒するようなもの、老人の面をつけた人が少しひょうきんな仕草をするものなど、日本の神楽ににたような、神さまとの交信としての舞踊、という感じも受けました。男性も女性も目の力が強く、インドの舞踊にも通うものなのかもしれないと思いました。

 

 次の日に訪れたのはタマン・アユンというヒンズー寺院です。世界遺産にもなっていると聞きました。お濠の中の芝生の院内は静かな明るい場所で、ゆったりと見学できました。ヒンズーの建物の門は真ん中をいきなり切断したようなデザインです。住宅地の中でも一般の方がヒンズーの神様をお祭りするために小さな寺院建築のようなものを建てているのを見ましたが、そういうお宅にもこの門がありました。調べてはいませんが、もしかするともともとは夏至の日に太陽がこの間から出てくるとか、そのような意味を持っていたのでしょうか? 門としては通り道がとても狭く、実用的ではありません。邪気をはらうために狭き門より入れ、という意味もあるかもしれませんが、私には何か天文観測の施設のように見えました。

 

 タマン・アユンは1634年にムングウィ王によって建てられた王家の寺院で、「ムングウィの母なる寺」として知られています。濠や池があり、水の静けさと緑の豊かさが美しいところです。池の中の泉の9つの噴水はバリニーズ・ヒンズーの9柱の神様を表していると聞きました。見学は聖域を囲む小さな濠の外からするのですが、建物の石彫が見事でした。ガルーダや龍、鬼、唐草がありましたが、鋭さとダイナミックな動きのある造形です。

 

 バリのヒンズー教は仏教と共通の部分もあり、インドネシアの地元の信仰とインドから来た信仰とが混じっているそうです。訪れるあらゆる地域で、いろいろな文化が融合されているのを見ると、人々が交流してきた歴史を感じ、人類の大きな流れに思いが及びます。その中で、影響しあい、また逆に自分たちの個性に気づきながら、私たちは進んで行くのだな、と思います。

(taman ayun の写真を載せましたが、90度回転しているものがあります。修正方法がわからず、お許しください。)

2015年11月29日 (日)

ボロブドゥールと二つの寺院

ウェブアルバム Google picasa へ

Candi Pawonの写真

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Candi Mundut へ

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ボロブドゥール寺院からの帰り道には二つの寺院に寄りました。Candi Pawon(チャンディ・パオン) とCandi Mundut(チャンディ・ムンドゥッ)です。両寺院ともボロブドゥール寺院同様、8世紀に建てられたということです。また、年に一度、5月には満月の夜にこの3つの寺院で祭りが行われるとガイドさんが教えてくれました。ボロブドゥール、パウォン、ムンドゥッの3つの寺院は一直線上に並んで建てられており、何か大きな世界観を持って配置されているのかもしれません。

 

Candi Pawon(チャンディ・パウォン)は中には入れず、芝生の上に立つ建物を周囲から眺めるだけですが、お堂の壁には菩薩形の人物が彫られており、飛天や半人半鳥のキンナラ(緊那羅)がお堂の外壁を飾っています。小さなお堂ですが、芝生のところどころにはブーゲンビリアなどの花も美しく咲き、仏教徒のほとんどいなくなった今も世界遺産として、大切にされているように見えました。

 

ところで、壁に描かれる鳥の脚をした緊那羅は、豊かに葉が茂り、果実もみのる木の下の左右に描かれています。美しい声で歌う仏の眷属として知られていますが、Candi Pawonのキンナラは胸の描き方が違うので、左が男性、右は女性のようです。漢字では区別しませんが、タイ語などでは女性形の緊那羅はキンナリーと呼ぶそうで、こちらは天女の姿で舞い降りて、歌を歌うとも伝えられているといいます。

 

わが国、興福寺の八部衆にも緊那羅がいますが、この奈良時代の像は三つ目とはいえ、人間の姿をしており、少年のような風貌で造られています。仏教が伝わる中で、キンナラ・キンナリーは少しずつ姿を変えたり、役割を変えたりしているようですが、美しい歌声であるところからすると、樹上で鳴く鳥の声に、天からの贈り物だと感じた古代の人々の感覚がこのような眷属を生み出したのでしょう。

 

また、キンナラ・キンナリーの中央に立つ樹木は、イスラム美術でよく拝見する「生命の樹」にも見えます。人の姿を偶像化することを禁じたイスラムの世界ではキンナラたちの姿はありませんが、豊かに茂る樹木や果実のイメージは広がっていったのかしら、とも思いました。

 

次にCandi Mundut です。とても大きなガジュマルの樹の向こうに修復中のお堂が見えました。Candi Pawonより大きく、お堂の中に入ることもできました。お堂の入り口左右には帝釈天と訶梨帝母(かりていも)のレリーフがあります。

 

訶梨帝母はインドではハーリティーという女神で、日本では鬼子母神として知られています。人の子をさらって食べていた訶梨帝母に、釈迦は500人いた彼女の子のうち、末子ひとりを隠してしまいます。世界中を半狂乱になってわが子を探す訶梨帝母に、釈迦は子を失う親の悲しみを教え、人間の子をさらうことをやめさせたといいます。そんな訶梨帝母は、子育てや安産の神様として信仰されてきました。チャンディ・ムンドゥッのレリーフには子供たちに囲まれながら赤ちゃんを抱く優しい表情の訶梨帝母が描かれていました。子供たちは木登りしたり、果実に手を伸ばしたりしています。反対側のレリーフも子供たちが帝釈天にまとわりついたり、目隠しをして遊んだりしています。本当に幸せな風景ですね。

 

ところで、日本の鬼子母神というと柘榴を持っています。これは吉祥果とあった言葉を中国で訳すときにザクロにしたから、とウィキペディアにありました。中国、日本では訶梨帝母といえば柘榴ですが、ここインドネシアでは違うのかもしれません。レリーフの樹木にも果実がみのっていますが、右の樹はビワのようにも見え、左の樹は柑橘類のようにも見えます。何を表しているのでしょうか? 因みに訶梨帝母自身は何の果実も持っていない図像でした。

 

お堂の中には3体の大きな仏像がありました。中央は正面を向く如来像。左右は向かい合って座る半跏像の菩薩です。どの像も健康的な若々しい体躯で、明るい表情の像でした。如来像は転法輪院を結んでおり、日本ではあまり見ない姿でした。左の菩薩像は右手を与願印、左手を施無畏印にし、右の菩薩像は右手の平を上に向け、左手を下におろし、触地印でもないような姿で、私にはよくわかりませんでした。

 

如来像はその明るい印象や姿勢の良さのせいか、最初、東京深大寺の倚像に似ているような気がしました。帰宅して画像を比べてみれば目の細さ、体躯のゆるい具合、印相も違うのですが、倚像であること、台座にかかる裳裾の表現、姿勢よく正面を向いているところはやはり似ています。菩薩像は美しい宝冠や腕釧、足首にも飾りをつけ、端正な顔をして、なかなかのイケメンです。このイケメン風は東寺の仏像群にも見られます。深大寺は7世紀、チャンディ・ムンドゥッは8世紀、東寺の立体曼荼羅の仏像は9世紀、仏教文化がどのようにアジアに広まったのか、気になるところです。時代とともに地域ごとに少しずつ変化した像を見ることはその流れを考える上でとても面白いことです。


(写真はムンドゥッ寺院の訶梨帝母のレリーフ)

2015年11月28日 (土)

ボロブドゥールの謎

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 プランバナン寺院に行った次の日は仏教遺跡のボロブドゥールに参りました。ジョグジャカルタの街の中心部から車で1時間ほどでした。車窓からは苗を植えたばかりの水田が見えたかと思うと刈り取った後の水をぬいた田んぼ、青々と育つ稲の田も見えます。日本と違って年に3回米を作るというこの国では、一度に色々な生育状態の稲が見えます。畦道にはヤシの樹があって、南の国に来ているんだな、と感じます。

 

 遺跡の麓には美しい庭のあるホテルがあり、今回はこちらから入りました。テレビで見た時はジャングルの中の遺跡というイメージがあって、なんだか車で簡単に来て、しかも美しい庭を通って遺跡に向かうとは少し拍子抜けした感じです。車の中でガイドさんが遺跡が発見された経緯を説明してくれましたが、このような大きな遺跡が埋まっていて人々に忘れられていた、というのですから驚きです。

 

 このボロブドゥール遺跡を発見したとされるのが、イギリス人のラッフルズ(Sir Thomas Stamford Raffles)です。この名を聞くと私はシンガポールにあるコロニアル式の建物のホテルを思い出してしまいますが、ラッフルズは遺跡発見当時、ジャカルタの副知事を務めていたそうです。また、ボゴールにある植物園はラッフルズの妻が創始者といいますから、インドネシアにゆかりの深い人たちです。このボゴール植物園にも先日参りましたが、ここには今もLady Rafflesのための白い記念碑がありました。

 

 さて、ボロブドゥール遺跡には昨日のプランバナン寺院同様、多くの石彫画があります。ガイドさんの話では、それは釈迦の生涯、釈迦の前世譚であるジャータカの物語、善財童子が文殊菩薩ら聖人を訪ねる物語などが描かれているということでしたが、まだ何の物語が描かれているのかわからないものもあるそうで、謎がのこされているそうです。

 

 それほど大きな人物像ではないのですが、場面に合わせて人物の表情も彫り分けられており、8世紀の工人たちの技に感心してしまいます。人物とともに馬、象、鹿、鳥、亀、猿などの動物や宝相華、花綱、天人、波、船、果樹、蓮の花など、いろいろなものが描き込まれています。私は船の画面に、この海に囲まれた国が釈迦の生まれたインドと海運でつながれていたのだ、と強く感じました。古代より人々は私たちが考える以上に海を渡り、文化を伝えあっていたのではないか、といろいろな本を読む毎に感じています。

 

日本の「華厳五十五所絵巻」

には可愛らしい善財童子が旅をする様子が描かれていますが、同じ題材がこのボロブドゥールにも描かれている、ということだけでも、何だかワクワクすることです。さまざまな危険があったとしても、人は旅をして交流するようにできているんだろう、と思いました。

下記は東京国立博物館の「華厳五十五所絵巻」のページです。

http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A10494


写真はボロブドゥール遺跡の遠景です。
ボロブドゥールの写真はアルバムにもあります。どうぞご覧ください。
ただ、旅行に行く前日にカメラを壊してしまったので、スマートフォンで撮影したものです。

2015年10月31日 (土)

古都のラーマーヤナ

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王宮の写真です。
https://picasaweb.google.com/117390237595344033153/qOXubH?authuser=0&authkey=Gv1sRgCI-wyu31rY_cGQ&feat=directlink
プランバナン寺院群の写真です。
https://picasaweb.google.com/117390237595344033153/YstLfC?authuser=0&authkey=Gv1sRgCKqmg6uJ8avjZw&feat=directlink

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先月は週末を利用してジョグジャカルタに行きました。着いた日は王宮の中を見て回り王家の使っていた調度品や外国からの贈り物などを見学しました。また、宮廷の人々が着用していたバティックなどの展示も見ました。バティックに関してはそれを作っていた名人たちの写真も残っており、高齢の男女のバティック技術者たちの姿を拝見できました。宮廷の人たちのためのバティックを作ることは名誉なことで、日本でいえば人間国宝のような方々なのだろうと思いました。王様だけが身に着けられるバティック、高官が身に着ける模様、後宮の女性たちのバティックがそれぞれ作られていたのです。

染色の材料の展示もありました。 Kayu JambalBunga SrigadinMahon Kayu Secang Bunga Kasi Buah Jat Paln Tembakao など木の皮、花、葉がおいてあり、それがどのような色を染めるのに使うのかが書いてありました。ちなみに、Mahonは家具などで使われるマホガニー、Paln Tembakaoはタバコの葉っぱです。(暗い展示室の中でメモをしたので、スペルが違っているかもしれません。)

 

王宮の門の所で、面白いものがありました。一見すると丸太、あるいは、持ち手がついている巨大な麺棒のように見える太鼓です。丸太の中がくりぬいてあり、なかなか良い音がします。私が拳を作って叩いてみると、ガイドさんがこちらをたたいてごらんと言い、そこを叩くともっと良い音がしました。木をくりぬいたものがこんな楽器になるということ、不思議ですね。

夕刻にはプランバナン寺院群に参りました。世界遺産のヒンズー寺院です。中心となるロロ・ジョングランは856年、サンジャヤ朝・古マタラム王国のピカタン王が建造を始め、907年、バリトゥン王の治世に完成したそうです。35キロほど離れた所にあるボロブドゥールの仏教遺跡が造られたのはこれより100年ほど前です。仏教を信じていたのはシャイレーンドラ朝の人々で、9世紀の頃はヒンズー教徒であるサンジャヤ朝は彼らの支配下にありました。プランバナン寺院群の敷地や周辺にある小さな寺々はサンジャヤ朝の人がシャイレーンドラ朝の王に寄進したものだということです。ふたつの宗教はこのように並立していたのです。

 

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プランバナンの寺院群の中でも最も大きいお堂Candi=チャンディ)はシヴァ神を祀るもので、47メートルあるということでした。その両脇にはブラフマーとヴィシュヌの神を祀る23メートルの高さのお堂があります。それぞれのお堂の中心部には神像があり、基壇部分の回廊には神々の物語が彫ってあります。中でもガイドさんが力を入れて説明してくれたのが、『ラーマーヤナ』の物語。古代インドの紀元前10世紀くらいから語り継がれ、今の形に整えられたのも紀元前4世紀から2世紀、と言われる叙事詩です。インドから東南アジアに広がり、ここインドネシアでも親しまれてきた英雄ラーマの物語です。Dsc_2720_1s600x338


 

その『ラーマーヤナ』の物語の場面が石で彫られてチャンディの回廊を巡っています。仏教の菩薩のような古代インドの貴族の姿をした若者が登場し、美しいシータ姫が登場し、悪魔や魔法使いが登場する冒険譚で、猿の姿のハヌマーンも出てきます。ガイドさんは熱心にこれを語ってくださいました。石彫は生き生きとそれぞれの場面を描いており、もっとじっくりお話を伺っていたかったくらいでした。

 

この遺跡の野外劇場でもその夜は『ラーマーヤナ』の劇が行われるとのことでしたが、私たちは都合で、ホテル近くの劇場で別の『ラーマーヤナ』の舞台を観ることになりました。

優雅な身振りのシータ姫の舞、あのレリーフのポーズそのものを踊りの形で演ずるラーマ王子やラクシマナ王子に感心してしまいました。『ラーマーヤナ』は今まで影絵のものを少し見たことがありましたが、実際の人間があの影絵の人形のような不思議な動きを再現していて、面白く感じました。どこの国でも踊りというのは人形ぶりのような部分がありますが、ここではなんと影絵の人形のように動くのです。

 

 帰国してから私は電子書籍で子供向けの『ラーマーヤナ』を読んでみました。(購入するときは子供向けとは知りませんでしたが、これもまたすぐに読めて、良かったです)神話独特のオーバーな表現のなかに、人が大切にすべき心についても語られており、楽しく一気に読んでしまいました。インドや東南アジアでは、この物語を何日もかけてお祭りの時に語ったりするそうで、誰でもが幼い時から聞いているのだそうです。私の読んだ本の初版は1971年なので、現代もそのような様子なのかは分かりませんが、古代から伝えられている物語、これからも大切に語り継がれるといいですね。

その他のカテゴリー

タマン・アユン寺院

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    インドネシア、バリ島にある ヒンズー寺院