2017年4月29日 (土)

自由な発想と国際的感覚の茶の湯

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東京国立博物館で、茶の湯展が開催されています。連休前の爽やかな風の中、和服の女性も多く、上野は桜の季節を過ぎても賑やかな雰囲気です。

 

 

 

さて、展覧会の展示品リストを見ると最初は「南宋時代」の器物がずらりと並び、次第に「室町時代」のものが入り、「朝鮮時代」の井戸茶碗がきて、その後侘茶の時期になってようやく「安土桃山時代」の掛物や陶器などが書かれています。

 

 

 

現代の私たちにとって、日本そのもの、と感じられる茶の湯もその源は中国から始まり、私たちは器物を買い求め、それを真似し、そのうちに自分たち独自のセンスや工夫を加えて今のかたちに仕上げてきました。

 

 

 

中国の宮廷にあるような肌のつるりとした青磁と、朝鮮の庶民が使うざらりとした井戸茶碗と、瓦を焼く職人であった長次郎に焼かせた真っ黒の楽茶碗がひとつの部屋に集められ、南宋の水墨画が掛けられたあとには、身近にある竹を切っただけの花入れに花が挿されて床の間を飾ります。何という自由な世界でしょう。器物は中国や朝鮮のものであっても、この発想は日本が作りだしたものです。面白いですね。

 

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中国で薬を入れていた小さな壺には象牙の蓋をかぶせて、豪華な錦の袋を着せて茶入にしましたし、さまざまな道具を包む布にはインドやインドネシアで染められた更紗が使われました。タイで嗜好品として好まれたビンロウの実を入れる漆の筐は「蒟醬」(きんま)と呼ばれ、茶箱になりました。ベトナムの素朴な壺はその縄目模様から「南蛮縄簾」と呼ばれて、水指になりました。今のフィリピンからは大小の壺がきて、呂宋(るそん)の壺と呼ばれ、葉茶が詰められて大名のように行列しました。茶室は東南アジアからもたらされた豊かな文化が入り混じって、異国情緒たっぷりの空間です。とても国際的なのに、私たちはその組み合わせを「日本的」と感じます。不思議ですね。

 

 

 

こうしたことを考えると、日本人は本当に頭の柔らかい、しなやかな感性を持つ人が多いのかもしれない、と思えます。この柔らかさで、世界のいろいろなすてきなものを発見して、それを組み合わせることで新たな宇宙を創り出す、そんな伝統、これからも守っていきたいですね。

(写真は同展のちらし)

 

2017年3月 2日 (木)

民藝とポップアートの全体

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 昨年、仕事で大阪に行ったついでに万博公園の中にある大阪日本民芸館に寄りました。千里の万博会場は私たちの年代にとっては昔見た夢の塊のような場所で、今も残されている岡本太郎の「太陽の塔」がとても懐かしい想いを呼び起こします。「太陽の塔」の裏の顔は黒く、怖ろしい形相に作られていたのか、と改めて認識しながらも、美しく紅葉した樹木を楽しみつつ、歩きました。

 

 

 東京渋谷の日本民芸館を訪れたことはありましたが、大阪の民芸館は初めてです。どちらの建物も何か共通するものがあり、どっしりした、風通しのよいような、広々した感じを受けました。

 

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 行われていたのは「秋季特別展 河井寛次郎」で、民芸運動の最初期から関わっていた河井寛次郎の作品がたくさん陳列されていました。

 

 たくさんの作品の中には、よく知られている作風の「これぞ民藝の焼き物」と思わずにやりとしてしまうものと、「河井寛次郎はこのような作品も作っていたのか!」と目を見張るようなものがありました。会場で流されていたビデオでは、むしろこの後者にあたるような作品を喜々として作っている寛次郎が紹介されていました。その造形はあの岡本太郎さんにも通じるような意外な形、常識を裏切るようなものでした。

 

 

 

 「民藝」運動を始めた人がこのような作品を作っていたというのはどのように考えたらよいでしょうか。やはり人は社会と深くつながって人のために働く部分と内から湧き出てくる個性の部分がある、ということなのかもしれません。一人の人間の中に保守の部分と革新のほとばしりがある、ということなのか、年齢を重ねるうちに色々な面が出てくるということなのか、とさまざまに考えました。いずれにしても、全体でその人です。

 

 

 

この大阪日本民芸館では、この他にも常設展示として濱田庄司、宗像志功、芹沢銈介らの作品に出会えました。お土産には主人の故郷で焼かれた箸置きを買いました。日本民芸協会のサイトをみると、民芸館は日本全国にあります。各地の民芸館に行きたくなりました。ちなみに、大阪日本民芸館では34日から春季特別展「菓子木型の世界-美をかたどる-」という展示会が行われるようです。

(写真は同展ちらし。おもて面の作品は民藝とアートの融合したようなものにみえます)

 

金春家の能面の奥深さ

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先週の土曜日、上野でほんの40分ほどの時間があいて、東京国立博物館に立ち寄りました。すでに平成館は入場できず、常設展示のみです、と言われながら入りましたが、この夕方の時間帯でも来日した海外からのお客さま達がどんどん博物館へと入っていくのでした。

 

短い時間で楽しむには、と探すと、「金春家伝来の能面・能装束」という展示をしており、2つの部屋をみるだけなら、ちょうどいいので、これを見学に行きました。

 

金春家というのは奈良にゆかりの深い能の家で、現在もシテ方としてその伝統が引き継がれています。秀吉の弟、秀長の贔屓を受けたことをきっかけに、太閤秀吉の庇護も受け、金春大夫安照は朝鮮出兵のために出向いた佐賀の名護屋城で太閤に能を教えたり、家康の駿府城に招かれたりしていたといいます。

 

この展示は主に諦楽舎が守ってきた能面や能装束が奈良帝室博物館に入り、その後東京国立博物館に保管されることとなったものだという説明がありました。この諦楽舎というのは、奈良在住の実業家らが集まって作った団体です。明治期、経済的に苦境に立った金春家が能装束などを売りに出したため、これを春日大社が購入、さらにこれを引き取って守ったのが諦楽舎だったのです。つまり、この金春能の展示は、平成館で行われている春日大社の展覧会に合わせて開催されているのです。春日大社や興福寺専属の猿楽師から発展した能の家の宝が並んでいたのです。

 

能面に限らず、面というものはどこか怖ろしい何かを持っているように感じるのですが、いくらか能を観るようになってからは、この怖ろしさに少し慣れてきました。能が演じられる時に感じる妙なリアル感は間違いなくこの能面によるところが大きいのです。人のように動きながら、どこかあの世のものと思わせ、笑顔の中に悲しみが隠れていたり、疲労の中に凄味が隠れていたりします。

 

あまり舞台では見たことのない「大天神」という面もありました。先月平成館で見た春日大社の春日明神の絵姿も同じような顔に描かれていたように思いました。悪さをした子供を上から怒鳴りつける校長先生のようにも見えます。威嚇の顔のようにも、人間の所業を少し悲しんでいるようにも見えます。

 

白いつるんとした女の面をみた後で、最後に般若の面を見ました。河内の面の解説に般若坊作の写しをした面が「哀しみの表現において本面の充実度には及ばない」という浅見龍介氏の言葉がありましたが、確かに般若の面には深い深い女の哀しみがあるのだな、と改めて感じました。自身でも止められない激しい気持ちは哀れであるのに、そのように追い込んだものを怨みつつも愛して狂ってしまう人の造形として、日本人は随分と残酷なものを作ったものだ、とため息が出ました。

(写真は同展図録)

2016年11月 3日 (木)

明治の気概をみた碌山美術館

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10月の連休に長野安曇野にある碌山美術館に行きました。晴れていればアルプスの連なりが見えるはずの景色も、残念ながら降ったり止んだりの空模様で半ば程までしか見えませんでした。それでも、霧に包まれる山裾の景色さえ、都会から行った者には新鮮で、ほっとするものです。

 

松本から通学の学生さんたちに混じりJR大糸線に乗って20分くらい、穂高駅はいかにもアルプスに近い場所の建物という風情でした。駅前には碌山美術館の案内もあり、観光スポットとして有名な所のようです。

 

学生の頃、スキーに行く折などに線路の傍に建つ洋風の鐘楼を教会と勘違いして、こんなチャペルで結婚式をしたい、などと夢みていたことが思い出され、我ながら可愛い若者であったと笑ってしまいます。それから数十年、社会人になった息子と訪れることになりました。

  現在の碌山美術館は、おそらくその頃よりさらに整備され、建物なども増えているのではないかと思いますが、教会と間違えた蔦の絡まる建物、ミュージアムショップとなっているグズベリーハウスなど、木立ちの中の建物の雰囲気はとても素敵です。

 

 碌山こと荻原守衛は明治の彫刻家です。この地の出身で、周囲にはキリスト教信者のグループもあり、東京に学んだり、仕事を持ったりという先輩たちもいたそうで、そうした中で一枚の油絵を見たことをきっかけに、美術を志したということです。東京に出て明治女学校で仮住まいしながら美術を学び、そのうちにアメリカに留学。ニューヨークで富豪のフェアチャイルド家で働きながら美術学校に通い、さらには勉強のために行ったパリでオーギュスト・ロダンに出会い、自らも彫刻へと進み、エジプトやローマへも美術の勉強のために旅行しました。

 

 展示にはこうした荻原守衛の人生を追う手紙や写真があり、彼の読んだ本を納めた本棚がありました。明治12年生まれの青年が物凄い勢いで変革していく日本の中で、地方から中央へ出て学び、さらに目指すもののために海外へわたったようすが細かにわかりました。今のように情報や資料のない中、次々と新しいものを目指して飛び込んで行った守衛という人のまっすぐな気持ちに、便利な世に住む我々は脱帽するしかありません。

 

 彫刻作品は有名な「女」の他、数点がありました。中で目を見張ったのは「文覚」。以前、弟子にあたる明恵上人に関わる本で読んだような記憶があるのですが、時の政治家が怖れをなしていたといわれる程の豪傑さで知られる平安―鎌倉の頃の僧です。人妻を愛してしまい、夫を殺そうとして誤って愛するその人を殺したという話が伝わる人物です。しかも、碌山がこの人物を作った動機は、彼もまた同じように先輩の妻に恋していたから、というのです。アメリカやヨーロッパでの写真の中の碌山は優しい顔で、虚空を睨み付ける「文覚」とは全く違う印象です。にも拘わらず、この激しい憤りを表した文覚上人と同様の苦しい心を内に持っていたとは。

 

 解説を読むと「デスペア」「女」は碌山の愛した相馬黒光の絶望や悲しみを表した、とありました。黒光もまた、夫の裏切りに悩んでいたのです。苦しむ女性を救えない自分と向き合い、それを作品にした碌山の葛藤を知ると余計に作品に惹かれます。碌山美術館は明治の青年の気概を感じ、またその人生の苦さにも触れて、小さいながら重みのある美術館でした。

2016年9月 1日 (木)

丹後に宿る幾重もの多様な交流

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京都博物館で、「丹後の仏教美術」という特集陳列を見ました。ちょうど土曜講座のあった日で、長年、京丹後市役所にお勤めの小山元孝さんのお話も伺えました。

 

丹後、と聞いても東京生まれの私はピンとくるものはなく、丹後ちりめん位しか頭に思い浮かばず、日本海に近い京都のこの地域には行ったこともなく、基本的なことから教えていただくようなことでした。しかし、展示の仏像を見るとなんと神護寺の薬師如来によく似た金剛心院の如立像があり、叡山横川の恵心僧都源信(9421017)が造立した美しい截金と着彩の地蔵菩薩の摸刻像がありました。

 

博物館のミュージアムショップで売られていた過去の丹後にまつわる展観の図録を買い、読んでみると、丹後という土地は弥生時代からすでに朝鮮半島や中国大陸との交流があり、先進文化の取り入れ口として、よい港を持ち、畿内と河川を使って上手に連絡をしていた所でした。

 

ここには麻呂子親王の鬼退治伝説というものがあり、展覧会でもそのいくつかのバージョンの絵巻がでていましたし、図録類にもたくさんの鬼退治の物語の絵図が載っていました。麻呂子親王というのは当麻皇子(たいまのみこ)とも言われ、聖徳太子の異母弟なのですが、当麻寺を創建したとされる人物でもあります。鬼退治では大江山が有名ですが、場所も近く、こうした伝説がどのように広がっていったのか、興味のあるところではあります。

 

また、聖徳太子の2歳の時の姿という「南無聖徳太子像」という鎌倉時代の像が宮津市の成相寺にあるそうです。聖徳太子信仰は10世紀のころから高まりをみせると言われていますが、同じような像がこの春訪れた広島の尾道の浄土寺にもありました。この浄土寺も聖徳太子創建と伝えられている寺で、ここから四国へ渡った先には聖徳太子が荘園を持っていたといいますし、また四国で勢力を持っていた長曾我部氏の先祖は新羅から来た秦氏であり、秦河勝は聖徳太子の教育者でありました。

 

飛鳥時代の聖徳太子から直接につながっているのではないかもしれませんが、どこかでそれを思い出して伝説を作っていった人々がいた、ということが面白いことに思えます。それが、広島の尾道にも丹後の宮津にも遺っているのです。鬼退治もおそらくは地元勢力を征圧した話が鬼という表現になったのではないかと思われますが、その鬼の名前も「えい古」「土車」「軽足」と伝えられています。「土車」は「つちくま」になり、「土蜘蛛」になるのでしょうか? 話は発展し、尾ひれがついて私たちのところに届きます。色鮮やかな鬼退治の絵巻を見ていると、これを見ていた人々のワクワク感が伝わってきます。本当に起こったことではなく、人々が見たかったもの、また権力ある者が見せたかったものが描かれているのでしょう。

 

京丹後市の本願寺の「仏涅槃図」にはモンゴル風の姿の人物が描かれており、元代のものを写した可能性があるといいますし、南北朝時代の蔵王権現の懸け仏もあります。丹後には各時代、いろいろな地域との交流があり、その重なりは多層で、そう簡単には読み解けないほど濃密な感じがしました。

2016年8月27日 (土)

バリ島のヒンズー寺院,タマン・アユン

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 もう2カ月近く前になりますが、バリ島のウブドに参りました。ジャカルタから東へ飛行機で約2時間。同じ国のなかでも時差のあるバリ島です。デンパサールでは空港建物への入り口にもヒンズー教の寺院のような門がありました。

 

 空港からは海の上を走るかのようなハイウェイで市内に入り、その後街なかを北上します。ウブドへは車で1時間半くらい。途中には石彫が並ぶ店や人が入れるほどの大きな甕を並べる所、バティックや銀細工の看板も見えます。デンパサールからウブドへの道はクラフト街道と呼ばれる道があり、工芸品を製作する村々をつないでいるようです。

 

 ウブドに着いた夜は王宮で行われるバリ舞踊を見ました。美しい女性たちが並んで踊る宮廷の舞踊もありましたが、若い男性がひとり登場して神がかった仕草で辺りを圧倒するようなもの、老人の面をつけた人が少しひょうきんな仕草をするものなど、日本の神楽ににたような、神さまとの交信としての舞踊、という感じも受けました。男性も女性も目の力が強く、インドの舞踊にも通うものなのかもしれないと思いました。

 

 次の日に訪れたのはタマン・アユンというヒンズー寺院です。世界遺産にもなっていると聞きました。お濠の中の芝生の院内は静かな明るい場所で、ゆったりと見学できました。ヒンズーの建物の門は真ん中をいきなり切断したようなデザインです。住宅地の中でも一般の方がヒンズーの神様をお祭りするために小さな寺院建築のようなものを建てているのを見ましたが、そういうお宅にもこの門がありました。調べてはいませんが、もしかするともともとは夏至の日に太陽がこの間から出てくるとか、そのような意味を持っていたのでしょうか? 門としては通り道がとても狭く、実用的ではありません。邪気をはらうために狭き門より入れ、という意味もあるかもしれませんが、私には何か天文観測の施設のように見えました。

 

 タマン・アユンは1634年にムングウィ王によって建てられた王家の寺院で、「ムングウィの母なる寺」として知られています。濠や池があり、水の静けさと緑の豊かさが美しいところです。池の中の泉の9つの噴水はバリニーズ・ヒンズーの9柱の神様を表していると聞きました。見学は聖域を囲む小さな濠の外からするのですが、建物の石彫が見事でした。ガルーダや龍、鬼、唐草がありましたが、鋭さとダイナミックな動きのある造形です。

 

 バリのヒンズー教は仏教と共通の部分もあり、インドネシアの地元の信仰とインドから来た信仰とが混じっているそうです。訪れるあらゆる地域で、いろいろな文化が融合されているのを見ると、人々が交流してきた歴史を感じ、人類の大きな流れに思いが及びます。その中で、影響しあい、また逆に自分たちの個性に気づきながら、私たちは進んで行くのだな、と思います。

(taman ayun の写真を載せましたが、90度回転しているものがあります。修正方法がわからず、お許しください。)

2015年11月29日 (日)

ボロブドゥールと二つの寺院

ウェブアルバム Google picasa へ

Candi Pawonの写真

https://picasaweb.google.com/117390237595344033153/CandiPawon?authuser=0&feat=directlink

Candi Mundut へ

https://picasaweb.google.com/117390237595344033153/CandiMendut?authuser=0&feat=directlink

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ボロブドゥール寺院からの帰り道には二つの寺院に寄りました。Candi Pawon(チャンディ・パオン) とCandi Mundut(チャンディ・ムンドゥッ)です。両寺院ともボロブドゥール寺院同様、8世紀に建てられたということです。また、年に一度、5月には満月の夜にこの3つの寺院で祭りが行われるとガイドさんが教えてくれました。ボロブドゥール、パウォン、ムンドゥッの3つの寺院は一直線上に並んで建てられており、何か大きな世界観を持って配置されているのかもしれません。

 

Candi Pawon(チャンディ・パウォン)は中には入れず、芝生の上に立つ建物を周囲から眺めるだけですが、お堂の壁には菩薩形の人物が彫られており、飛天や半人半鳥のキンナラ(緊那羅)がお堂の外壁を飾っています。小さなお堂ですが、芝生のところどころにはブーゲンビリアなどの花も美しく咲き、仏教徒のほとんどいなくなった今も世界遺産として、大切にされているように見えました。

 

ところで、壁に描かれる鳥の脚をした緊那羅は、豊かに葉が茂り、果実もみのる木の下の左右に描かれています。美しい声で歌う仏の眷属として知られていますが、Candi Pawonのキンナラは胸の描き方が違うので、左が男性、右は女性のようです。漢字では区別しませんが、タイ語などでは女性形の緊那羅はキンナリーと呼ぶそうで、こちらは天女の姿で舞い降りて、歌を歌うとも伝えられているといいます。

 

わが国、興福寺の八部衆にも緊那羅がいますが、この奈良時代の像は三つ目とはいえ、人間の姿をしており、少年のような風貌で造られています。仏教が伝わる中で、キンナラ・キンナリーは少しずつ姿を変えたり、役割を変えたりしているようですが、美しい歌声であるところからすると、樹上で鳴く鳥の声に、天からの贈り物だと感じた古代の人々の感覚がこのような眷属を生み出したのでしょう。

 

また、キンナラ・キンナリーの中央に立つ樹木は、イスラム美術でよく拝見する「生命の樹」にも見えます。人の姿を偶像化することを禁じたイスラムの世界ではキンナラたちの姿はありませんが、豊かに茂る樹木や果実のイメージは広がっていったのかしら、とも思いました。

 

次にCandi Mundut です。とても大きなガジュマルの樹の向こうに修復中のお堂が見えました。Candi Pawonより大きく、お堂の中に入ることもできました。お堂の入り口左右には帝釈天と訶梨帝母(かりていも)のレリーフがあります。

 

訶梨帝母はインドではハーリティーという女神で、日本では鬼子母神として知られています。人の子をさらって食べていた訶梨帝母に、釈迦は500人いた彼女の子のうち、末子ひとりを隠してしまいます。世界中を半狂乱になってわが子を探す訶梨帝母に、釈迦は子を失う親の悲しみを教え、人間の子をさらうことをやめさせたといいます。そんな訶梨帝母は、子育てや安産の神様として信仰されてきました。チャンディ・ムンドゥッのレリーフには子供たちに囲まれながら赤ちゃんを抱く優しい表情の訶梨帝母が描かれていました。子供たちは木登りしたり、果実に手を伸ばしたりしています。反対側のレリーフも子供たちが帝釈天にまとわりついたり、目隠しをして遊んだりしています。本当に幸せな風景ですね。

 

ところで、日本の鬼子母神というと柘榴を持っています。これは吉祥果とあった言葉を中国で訳すときにザクロにしたから、とウィキペディアにありました。中国、日本では訶梨帝母といえば柘榴ですが、ここインドネシアでは違うのかもしれません。レリーフの樹木にも果実がみのっていますが、右の樹はビワのようにも見え、左の樹は柑橘類のようにも見えます。何を表しているのでしょうか? 因みに訶梨帝母自身は何の果実も持っていない図像でした。

 

お堂の中には3体の大きな仏像がありました。中央は正面を向く如来像。左右は向かい合って座る半跏像の菩薩です。どの像も健康的な若々しい体躯で、明るい表情の像でした。如来像は転法輪院を結んでおり、日本ではあまり見ない姿でした。左の菩薩像は右手を与願印、左手を施無畏印にし、右の菩薩像は右手の平を上に向け、左手を下におろし、触地印でもないような姿で、私にはよくわかりませんでした。

 

如来像はその明るい印象や姿勢の良さのせいか、最初、東京深大寺の倚像に似ているような気がしました。帰宅して画像を比べてみれば目の細さ、体躯のゆるい具合、印相も違うのですが、倚像であること、台座にかかる裳裾の表現、姿勢よく正面を向いているところはやはり似ています。菩薩像は美しい宝冠や腕釧、足首にも飾りをつけ、端正な顔をして、なかなかのイケメンです。このイケメン風は東寺の仏像群にも見られます。深大寺は7世紀、チャンディ・ムンドゥッは8世紀、東寺の立体曼荼羅の仏像は9世紀、仏教文化がどのようにアジアに広まったのか、気になるところです。時代とともに地域ごとに少しずつ変化した像を見ることはその流れを考える上でとても面白いことです。


(写真はムンドゥッ寺院の訶梨帝母のレリーフ)

2015年11月28日 (土)

ボロブドゥールの謎

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 プランバナン寺院に行った次の日は仏教遺跡のボロブドゥールに参りました。ジョグジャカルタの街の中心部から車で1時間ほどでした。車窓からは苗を植えたばかりの水田が見えたかと思うと刈り取った後の水をぬいた田んぼ、青々と育つ稲の田も見えます。日本と違って年に3回米を作るというこの国では、一度に色々な生育状態の稲が見えます。畦道にはヤシの樹があって、南の国に来ているんだな、と感じます。

 

 遺跡の麓には美しい庭のあるホテルがあり、今回はこちらから入りました。テレビで見た時はジャングルの中の遺跡というイメージがあって、なんだか車で簡単に来て、しかも美しい庭を通って遺跡に向かうとは少し拍子抜けした感じです。車の中でガイドさんが遺跡が発見された経緯を説明してくれましたが、このような大きな遺跡が埋まっていて人々に忘れられていた、というのですから驚きです。

 

 このボロブドゥール遺跡を発見したとされるのが、イギリス人のラッフルズ(Sir Thomas Stamford Raffles)です。この名を聞くと私はシンガポールにあるコロニアル式の建物のホテルを思い出してしまいますが、ラッフルズは遺跡発見当時、ジャカルタの副知事を務めていたそうです。また、ボゴールにある植物園はラッフルズの妻が創始者といいますから、インドネシアにゆかりの深い人たちです。このボゴール植物園にも先日参りましたが、ここには今もLady Rafflesのための白い記念碑がありました。

 

 さて、ボロブドゥール遺跡には昨日のプランバナン寺院同様、多くの石彫画があります。ガイドさんの話では、それは釈迦の生涯、釈迦の前世譚であるジャータカの物語、善財童子が文殊菩薩ら聖人を訪ねる物語などが描かれているということでしたが、まだ何の物語が描かれているのかわからないものもあるそうで、謎がのこされているそうです。

 

 それほど大きな人物像ではないのですが、場面に合わせて人物の表情も彫り分けられており、8世紀の工人たちの技に感心してしまいます。人物とともに馬、象、鹿、鳥、亀、猿などの動物や宝相華、花綱、天人、波、船、果樹、蓮の花など、いろいろなものが描き込まれています。私は船の画面に、この海に囲まれた国が釈迦の生まれたインドと海運でつながれていたのだ、と強く感じました。古代より人々は私たちが考える以上に海を渡り、文化を伝えあっていたのではないか、といろいろな本を読む毎に感じています。

 

日本の「華厳五十五所絵巻」

には可愛らしい善財童子が旅をする様子が描かれていますが、同じ題材がこのボロブドゥールにも描かれている、ということだけでも、何だかワクワクすることです。さまざまな危険があったとしても、人は旅をして交流するようにできているんだろう、と思いました。

下記は東京国立博物館の「華厳五十五所絵巻」のページです。

http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A10494


写真はボロブドゥール遺跡の遠景です。
ボロブドゥールの写真はアルバムにもあります。どうぞご覧ください。
ただ、旅行に行く前日にカメラを壊してしまったので、スマートフォンで撮影したものです。

2015年10月31日 (土)

古都のラーマーヤナ

picasa web albumへ 
王宮の写真です。
https://picasaweb.google.com/117390237595344033153/qOXubH?authuser=0&authkey=Gv1sRgCI-wyu31rY_cGQ&feat=directlink
プランバナン寺院群の写真です。
https://picasaweb.google.com/117390237595344033153/YstLfC?authuser=0&authkey=Gv1sRgCKqmg6uJ8avjZw&feat=directlink

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先月は週末を利用してジョグジャカルタに行きました。着いた日は王宮の中を見て回り王家の使っていた調度品や外国からの贈り物などを見学しました。また、宮廷の人々が着用していたバティックなどの展示も見ました。バティックに関してはそれを作っていた名人たちの写真も残っており、高齢の男女のバティック技術者たちの姿を拝見できました。宮廷の人たちのためのバティックを作ることは名誉なことで、日本でいえば人間国宝のような方々なのだろうと思いました。王様だけが身に着けられるバティック、高官が身に着ける模様、後宮の女性たちのバティックがそれぞれ作られていたのです。

染色の材料の展示もありました。 Kayu JambalBunga SrigadinMahon Kayu Secang Bunga Kasi Buah Jat Paln Tembakao など木の皮、花、葉がおいてあり、それがどのような色を染めるのに使うのかが書いてありました。ちなみに、Mahonは家具などで使われるマホガニー、Paln Tembakaoはタバコの葉っぱです。(暗い展示室の中でメモをしたので、スペルが違っているかもしれません。)

 

王宮の門の所で、面白いものがありました。一見すると丸太、あるいは、持ち手がついている巨大な麺棒のように見える太鼓です。丸太の中がくりぬいてあり、なかなか良い音がします。私が拳を作って叩いてみると、ガイドさんがこちらをたたいてごらんと言い、そこを叩くともっと良い音がしました。木をくりぬいたものがこんな楽器になるということ、不思議ですね。

夕刻にはプランバナン寺院群に参りました。世界遺産のヒンズー寺院です。中心となるロロ・ジョングランは856年、サンジャヤ朝・古マタラム王国のピカタン王が建造を始め、907年、バリトゥン王の治世に完成したそうです。35キロほど離れた所にあるボロブドゥールの仏教遺跡が造られたのはこれより100年ほど前です。仏教を信じていたのはシャイレーンドラ朝の人々で、9世紀の頃はヒンズー教徒であるサンジャヤ朝は彼らの支配下にありました。プランバナン寺院群の敷地や周辺にある小さな寺々はサンジャヤ朝の人がシャイレーンドラ朝の王に寄進したものだということです。ふたつの宗教はこのように並立していたのです。

 

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プランバナンの寺院群の中でも最も大きいお堂Candi=チャンディ)はシヴァ神を祀るもので、47メートルあるということでした。その両脇にはブラフマーとヴィシュヌの神を祀る23メートルの高さのお堂があります。それぞれのお堂の中心部には神像があり、基壇部分の回廊には神々の物語が彫ってあります。中でもガイドさんが力を入れて説明してくれたのが、『ラーマーヤナ』の物語。古代インドの紀元前10世紀くらいから語り継がれ、今の形に整えられたのも紀元前4世紀から2世紀、と言われる叙事詩です。インドから東南アジアに広がり、ここインドネシアでも親しまれてきた英雄ラーマの物語です。Dsc_2720_1s600x338


 

その『ラーマーヤナ』の物語の場面が石で彫られてチャンディの回廊を巡っています。仏教の菩薩のような古代インドの貴族の姿をした若者が登場し、美しいシータ姫が登場し、悪魔や魔法使いが登場する冒険譚で、猿の姿のハヌマーンも出てきます。ガイドさんは熱心にこれを語ってくださいました。石彫は生き生きとそれぞれの場面を描いており、もっとじっくりお話を伺っていたかったくらいでした。

 

この遺跡の野外劇場でもその夜は『ラーマーヤナ』の劇が行われるとのことでしたが、私たちは都合で、ホテル近くの劇場で別の『ラーマーヤナ』の舞台を観ることになりました。

優雅な身振りのシータ姫の舞、あのレリーフのポーズそのものを踊りの形で演ずるラーマ王子やラクシマナ王子に感心してしまいました。『ラーマーヤナ』は今まで影絵のものを少し見たことがありましたが、実際の人間があの影絵の人形のような不思議な動きを再現していて、面白く感じました。どこの国でも踊りというのは人形ぶりのような部分がありますが、ここではなんと影絵の人形のように動くのです。

 

 帰国してから私は電子書籍で子供向けの『ラーマーヤナ』を読んでみました。(購入するときは子供向けとは知りませんでしたが、これもまたすぐに読めて、良かったです)神話独特のオーバーな表現のなかに、人が大切にすべき心についても語られており、楽しく一気に読んでしまいました。インドや東南アジアでは、この物語を何日もかけてお祭りの時に語ったりするそうで、誰でもが幼い時から聞いているのだそうです。私の読んだ本の初版は1971年なので、現代もそのような様子なのかは分かりませんが、古代から伝えられている物語、これからも大切に語り継がれるといいですね。

2015年10月12日 (月)

細い背中の白鳳弥勒仏

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ひと月以上も前になりますが、奈良博物館で行われていた「白鳳」展を見に参りました。この日は公開講座もあって、「白鳳寺院を飾った工芸」という奈良国立博物館学芸部長・内藤栄氏のお話も聴いて参りました。

 

「白鳳」という時代設定は、ない、という人もいます。飛鳥時代後期、あるいは奈良時代前期と言ってもいいのではないか、という意見などあるそうです。にもかかわらず、奈良博物館は堂々と「白鳳」という展覧会を催しました。しかも、この展覧会は開館120年の記念特別展です。これは堂々たる意見表明なのです。

 

学問的には、白鳳時代を規定するのにいくつかの約束があって、その約束に合致したものが白鳳仏であり、白鳳の工芸品なのだろうと思いますが、我々一般の者にとっても、「白鳳」と聞いて何か一瞬で浮かび上がるイメージというものがあることも確かです。その浮かび上がるイメージの全てが今回の展覧会に出ていた、と思われる程、出陳点数の多い、見ごたえのある展覧会でした。

 

何よりの見どころは、修復中の薬師寺からおでましになった聖観世音菩薩像、月光菩薩像。また、あの会津八一の歌で有名な「あまつおとめ」が飛翔している大きな東塔の水煙。どれも普段はなかなか近づけない位置まで親しく拝見させていただけて、改めてその美しさを堪能しました。

 

7月に訪れたタイ・バンコクの国立博物館で、ボランティアの方々が作られた日本語版の図録の表紙(前号拙ブログの写真)になっていたシュリービジャヤ時代の菩薩像と薬師寺聖観音の両像には何か共通するものを感じました。表情や姿勢は異なるのですが、張りのある体躯や全体に瑞々しい印象というところが似ているように感じました。

 

また、造像年が「606年、または666年」と解説されている丙寅年の銘のある法隆寺献納宝物の菩薩半跏像は、ライトのあてられ方がとても素敵で、細い背中側から脇の美しい線を見られて、普段気づかない発見をしたような気分になりました。この菩薩が座る台座には薄い布が掛けられているような表現がありましたが、先月訪れたインドネシアのボロブドゥール遺跡近くにあるCandi Mundut(ガイドさんによれば8世紀頃の仏教寺院)の如来(写真下)の座る台座にも同じような布の表現があって、ここにもまたアジアの共通点が遺されているのだと思いました。Mundut01s


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この背中の細い半跏像は高屋大夫(たかやのたいふ)という人が亡くなった夫人の阿麻古(あまこ)のために造立した仏像だそうです。妻に先立たれたこの人は華奢な身体つきの半跏像に妻の面影を探していなかったかしら、とふと思いました。

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タマン・アユン寺院

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    インドネシア、バリ島にある ヒンズー寺院